母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『堕落論』坂口安吾

p.7

だから、昔日本に行なわれていたことが、昔行なわれていたために、日本本来のものだということは成り立たない。外国において行なわれ、日本には行なわれていなかった習慣が実は日本人にふさわしいこともあり得るのだ。模倣ではなく、発見だ。

 

p.21

京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今もなお、車折神社の石の冷たさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪きわまる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることができない。見るからに醜悪で、てんで美しくないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、そのあり方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。そうして、竜安寺の石庭で休息したいとは思わないが、嵐山劇場のインチキ・レビューを眺めながら物思いに耽りたいとは時に思う。人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、あるはずがない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。

 

p.30

このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいようにたいせつであろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕らにわからぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。

 

p.63

自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も怖れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りのできない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお賽銭をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に羨ましいと思ったけれども、僕はどうしてもいっしょに並んで拝む勇気が起こらず、離れた場所で鳩の豆を蹴とばしたりしていた。

 

p.71

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 

p.73

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。