母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『Xへの手紙・私小説論』小林秀雄

『一ツの脳髄』

p.17

私は、母の病気の心配、自分の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊していた。私はその当時の事を書きたいと思った。然し書き出して見ると自分が物事を判然と視ていない事に驚いた。外界と区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り廻している自分の姿に腹を立てては失敗した。自分だけで呑み込んでいる切れ切れの夢の様な断片が出来上ると破り捨てた。

 

『からくり』

p.39

彼の眼の前に揺曳した色々は、人間の血液のスペクトルだっただろうか、それとも彼の文体そのままにナトリウムのスペクトルの様な燻がかかっていたのだろうか、俺に知れよう筈はない。だが、俺は信ずるが、彼はある色を鮮やかに見たに相違ない、その色の裡に人間共がすべて裸形にされ、精密に、的確に、静粛に、担球装置をした車軸の様に回転するのを見たに相違ない。神の兵士等に銃殺されたこの人物が垣間みたものは、正しくこの世のからくりだったひ相違ない、そして又恐らく同じあの世のからくりだったに相違ない。

俺は冷たくなった炬燵に頬杖をつき、恐る恐る思案をした。ーー俺を支えているものは俺自身ではなく、ただの俺の過去なのかもしれない。俺には何んの希望もないのだから。だけど、俺が俺の過去を労ろうとすればするほど、それは俺には赤の他人に見えて来る。

 

『Xへの手紙』

p.76

和やかな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもっているからだ。この眼こそ一番張り切った眼なのだ、一番注意深い眼なのだ。たとえこの眼を所有することが難かしい事だとしも、人は何故俺の事をあれはああいう奴と素直に言い切れないのだろう。

 

p.80

どうやら俺は、自分の費やして来た時間の長さにだけ愛着を感じている様な気がする、たとえその内容がどうあろうと。俺は別れた女に愛着を感ずるというよりも寧ろ、女が俺に残して行った足跡に就いて思案している。

 

p.82

俺は恋愛の裡にほんとうの意味があるかどうかという様な事は知らない、だが少くともほんとうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもっているという事は、彼等が夢みている証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切っている、傍人には酔っていると見える歩道覚め切っているものだ。この時くらい人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生きとしてくる時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。

 

『様々なる意匠』

p.116

人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批判の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

 

p.120

凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言った様に、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている。怠惰も人間のある種の権利であるから、或る小説家が観念学に無関心でいる事は何等差支えない。然し、観念学を支持するものは、常に理念ではなく人間の生活の意力である限り、それは一つの現実である。或る現実に無関心でいる事は許されるが、現実を嘲笑する事は誰にも許されてはいない。