母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『私の幸福論』福田恒存

p.23

もちろん、長所のない人間などいるわけはありません。しかし弱点をとりかえそうとして、激しい気もちで長所の芽ばえにすがりつき、それを守ろうとすれば、かならずそこに歪みが生じます。自分は顔がまずい。だから、ひとに指一本さされぬよう、立派に生きようという心がけは殊勝ですが、そういう意気ごみから育てられた長所というものは、なるほど外見はしっかりして頼もしそうにみえますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人にたいする不寛容のつめたさがあるのがつねです。

 

p.24

人間の心理というのは、自分のことながら、いや、自分のことであればこそ、よほどうまく操らないと、しまいには自分でも操りきれぬ手に負えない存在と化してしまうものです。はじめの出発点が大事です。

まず自分の弱点を認めること。

 

p.36

社会や家庭という自分以外のものの存在に気づき、それによって自我意識が生じるとともに、今度は逆に自我の敵として社会や家庭をとらえはじめるのはいいのですが、もうすこし、その自我意識を徹底させていってごらんなさい。ままにならぬのは、家庭や社会ばかりではなくて、ほかならぬ自分自身だということに気づくでしょう。

 

p.49

勝とうという努力を抛棄し、なにもかも投げだしてしまったあとの、なにもしなくていい気楽な状態を私たちは望んでいたのです。いわば責任からの逃避であり、自由からの逃避であります。

自由とは、責任のことであり、重荷であります。

 

p.51

ただ今日、自由ということばが、あまりに安っぽく用いられているので、自由とは大変面倒なものだということ、みなさんも、いざとなれば、自由など要らないといいだしかねないこと、私はそれを注意しておきたかったのです。

まえにも申しましたように、自由とは、なにかをなしたい要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられております。

 

p.69

もし青春ということばに真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。


p.70

それは他人や社会にたいする批判力に眼をつぶらせろということを意味しはしません。懐疑し、批判し、裁いたのちに、なお残る信頼の力でなければならない。だからこそ、力といっているのであります。理窟ではありません。さらに附け加えるなら、その力が残らぬような懐疑や批判だったら、それはみなさんの手に余る危険なものです。構わないから投げすてておしまいなさい。