母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『欲望会議 性とポリコレの哲学』

p.6

欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意しているのです。一切の否定性を退けて、ただただポジティブに生きようとするのではなく、「何らかの意味で、否定性を肯定すること」が必要なのではないかというのが、三人に共通するスタンスなのです。 現代における主体性の大きな問題は、否定性の排除、否定なき肯定であり、そしてそれは、グローバル資本主義の本格化とおそらく関係しています。

 

p.29

ベルサーニは、我々は自己破壊的なオーガズムが怖いからセックスが嫌いなんだと言った。それは言い換えれば、オーガズムとはポストトゥルースだからでしょう。つまりオーガズムというのは本当とウソを超えることだから、結局、オーガズムが怖いというのは、本当とウソというバイナリー(二元性)が破壊されることが怖いんですよ。 本当とウソという二元性自体が破壊されることは、一番自分の存在が揺さぶられることです。それを恐れるから人はセックスを恐れるんじゃないですか。

 

p.98

でも僕ぐらいの年齢だって、よくわからない巻き込まれが確実にあった時代のことを知っているし、その時代が持っている興奮性を褒めたりすることもある。そうすると反動的だと言われるだろうけれど、巻き込まれにこそ宿る興奮性というのは、精神分析的に言えば、やはり確実にある。これは欲望の論理ですから。

 

p.105

少しつけ加えると、祝祭がそういう形で外に置かれていたのは近代までの構造で、いわゆるポストモダンの時代になると、日常が絶えざる祝祭の空間になってしまう。つまり、さまざまなエンターテインメントの消費が増えるから、常時、疑似祝祭になる。だからセックスレスになっていくと思うんです。 ファミコンが出始めた小学生の頃は、勉強や仕事もみんなゲームみたいにやれたら楽しいのになと夢想していました。そして実際、僕らの世代が社会の中核を担うようになると、ありとあらゆることがゲーム化されるようになっている。そうやって、日常全体がエンターテインメントの祝祭空間になったときに、いったい何を遊べばよいのかわからなくなったと思うんですね。すべてが遊びになっていく。政治的決定だろうが国際関係だろうが、すべてをゲームとして捉えることが、鋭利な知性の証のように考えられる段階になっている。つまり、すべてが「真面目な祝祭」になってしまった以上、愚かになれる空間というのがなくなっているわけです。これは、とてもおぞましい世の中です。

 

p.110

じゃあ、共感の時代の中で、みんなどんどん優しくなっていって、いままでより細かな配慮がみんなできるようになったのかと思いきや、そうともいえない。共感から外れる者に敏感になっているから、ちょっとでも外れていると、それを病理化して見出して、取り込もうとする。だから、発達障害的な人への心優しいケアがどんどん広がっているかのような状況と、サイコパス的なものへの恐れというのは、同一平面上の現象です。

 

p.114

千葉 二村さんは女性の能動性を強調するわけですが、それは、交換可能性というか、自分自身がウケになったり、タチになったりすることですよね。そういう交換可能性があるから一方的に相手を傷つけない、というところがポイントなんだと思います。 一般の男性は快感の追求が甘いから、貧しいセックスしかしていない。それは一方向的になるわけですよね。だから、相手を傷つけてしまう。それは快感の追求が足りないからですよ。二村 そうですそうです。わかってくれて、ありがとう。千葉 快感を追求したら、自分自身が受動的な立場に立ったり、もっとリバーシブルな関係に絶対向かっていくわけです。

 

p.130

おそらく、そういうことは世界中で起きている。被害者に感情移入しすぎる正義の人も、被害者意識があるからこそ強がって差別する側につく人も、自分の感情を根拠にひたすら相手を攻撃する。でも、自分自身が変身することは考えない。