母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『現代思想入門』千葉雅也

p.13

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。 人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。そのなかで、二〇世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。

 

p.28

。物事はいわば「仮固定的」な同一性と、ズレや変化が混じり合って展開していくのですが、こうした仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味である、ということになるでしょう。

 

p.36

大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同一性です。それは自分の内部を守ることです。それに対して、デリダ脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです。

 

p.38

すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。 脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。

 

p.76

ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います。それは新たに世俗的に生きることであり、日常生活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにはみ出してしまっても、「それが自分の人生なのだから」と構わずにいるような、そういう世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見ていた独特の古代的あり方をそのようにポストモダン状況に対する逃走線として捉え直すこともできるのではないでしょうか。

 

p.88

精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体として変わっていくことなのです。どう変わるかはわかりません。ただ、これはやはり一種の治療であり、何とも言いにくいかたちで、自分のあり方がより「しっかり」していくのだと言えると思います。精神分析は時間を節約してパッパと済ませることができません。精神分析経験とは、ひじょうに時間をかけて自分の記憶の総体を洗い直していく作業なのです。

 

 

p.91

物語的意味ではない意味を世界に、自分自身に見る。それが「構造」を見るということであり、しかもその構造は動的でリズミカルなものです。構造とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです。 まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、それは物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れだということです。それが、下部構造なのです。

 

P.98

同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。

 

p.105

欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動として再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱です。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることになるのです。 そのように欲動のレベルで成立するすべての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。したがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性をつねに持っているという意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なのだということになります。こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。

 

p.134

デリダドゥルーズフーコーにおいて共通して問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけが変動するという、意味の決定不可能性、あるいは相対性です。

ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だから何も言えないということではなく、「物事は複雑だ」ということです。多義的、両義的だということです。

〜〜〜

人間はそもそも精神分析的に言っても「過剰」な存在であって、一定の意味の枠組みを離れて物事を別様に意味づけようとする傾向があるので、それが突拍子もないような妄想に展開することは人間の基本設定としてありうるわけです。

 

p.144

どうしようもなく悩むことが深い生き方であるかのような人間観が近代によって成立し、それがさまざまな芸術を生み出したわけですが、そこから距離をとり、世俗的に物事に取り組んでいくことは、人間が平板になってしまうことなのでしょうか? そうではありません。むしろそのような世俗性にこそ、巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜劇的と言えるだろう深さがあるのではないでしょうか。 

問題に取り組むというのは、ただ解釈をこねくり回しているのではなく、実際にアクションをし、ほんの少しでも世界を動かそうとすることです。そこで動いているのは何か。思考だけではありません。身体が、事物が、物質が動いているのです。個々の問題にはもちろん困難なものがあり、それはストレスを強いるわけですが、その苦しみを無限の悩みから区別する。 

そういう意味において、メイヤスーが示した、無限の解釈ではなく事物それ自体へという方向性は、僕がフーコーから抽出した、古代的な=オルタナティブな有限性を生きるという生き方と関係してきます。 オルタナティブな有限性とは、行動の有限性、身体の有限性に他なりません。


p.145

身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。 底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです。そのとき世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。

『すべてはモテるためである』二村ヒトシ

p.29

活字だからってすぐ丸呑みにして信用すんな、ってことは、もちろん、この本に対しても言えることです。それと「読むスピードは読んでる人が勝手に決めていいんだ」というのが、本を読むという行為のカッコいいところです。

 

p.34

「ちゃんと考えられる人」が「暗くて重い」というのは、誤解です。 暗くなるということは「考えが堂々めぐりをしてる」ってことなんです。 ちゃんと考えられれば、とりあえず結論がでます。というか「どう動くべきか」の結論が出るように(しかも借り物の結論じゃなく、自分で)考えられるのが「ちゃんと考える」ということです。明るい、ってことは「それを、さくっと実行しちゃう意志の力もある」ってことですし、相手と自分との関係についてちゃんと考えられる、ってことは「なるべくスムーズに相手と同じ土俵に乗っかって、相手と同じルールで動ける、遊べる方法を考えつく」ってことです。

 

p.67

自分の人生の一部に、ちゃんとハマってください。本気でハマらなきゃダメです。

 

p.72

「自分のプライドを守る」ってことに異常にすばやく、かしこいんです。

誰かがあなたの【痛い部分】に触ろうとすると、あなたは、ものすごい速さで逃げる。

言葉としては理解しながら、そのことを【自分の問題として】受けとめられない。

その鉄壁の守りを崩したほうが幸せになれるんですけどね。そのためには、自分のプライドが通用しない世界に行って痛い目を見るしかないでしょう。

 

p.106

対話とは、相手の言ってることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。それから「自分の肚を見せる」ことです。それはキャバクラでの会話のしかた、風俗でエッチなことをする前にすべき話しかたと、さらに言うとエッチの上手なやりかたとも、同じです。「対話できる」ということが、つまり「相手と同じ土俵に乗れる」ということなんです。

 

p.109

上から目線ではなく相手の話を聴く、つまり「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聴いたことによって)変わる」つもりがあって話を聴いてるかどうか、あなたの側に【変化する気】があるかどうか、ということです。 それは、変化する【勇気】があるか、ということでもあるでしょう。

文喫 2022.4.9

『どもる体』伊藤亜紗

p.83

もちろん、そのような力が人間のコミュニケーションにとって常に必要なわけではないし、実際には単なるノイズになることのほうがはるかに多いでしょう。けれども、言葉を操る意識を押し流してしまうほどの興奮の塊を目の前にすると、私たちはとてつもない魅力を感じることがあります。

武満徹が吃音に見出したのも、そのような魅力でしょう。「職業化された話し方のそらぞらしさ」とは違う、「体と結びついた強さ」が吃音にはあると武満は言います。「どもりは行動によって充足する。その表現は、絶えず全身的になされる。少しも観念に堕することがない」。

 

『写真的思考』飯沢耕太郎

p.13

写真は静止画像であるがゆえに、画面の隅々まで視線を走らせ、その細部をほぼ同時に、何度でも味わいつくすことができる。動画では不可能な読みの厚み、予知や記憶を総動員した思考の運動が可能になってくるのだ。

 

p.19

『センチメンタルな旅』の陽子は、胎児であり、生者であり、同時に死者でもある。そこでは過去・現在・未来が入り混じり、予感と記憶が絡みあう。むろんこのような神話的思考が、あまりダイナミックに働かないような写真もあるだろう。

 

読めなかった本

『必然的にばらばらなものが生まれてくる』田中功起

『芸術の中動態 受容/制作の基層』森田亜紀

『心にとって時間とは何か』青山拓央

p.24

私は現在、認知症でなく、自分がいつの時期の自分か分からなくなることもないが、おそらくは、いま開いているページの開かれ方が若干弱い。だから、ときどき、このページを開いているものの「本当に今はこのページだったか?」と疑念をもつーーそしてしおりを挟むーーことになる。とはいえ、私はそのことであまり辛い気持ちにならない。むしろ私的にはこの疑念は「ドッキリ」番組のような明るさをもっており、急にやって来たテレビタレントに「あなたがここまで生きてきた、というのは冗談でした」と言われて「なんだ」と笑うような心象を伴っている。

 

p.43

以上、未来が過去に影響するかのような不思議な現象を見てきたが、もちろん、通常の因果の向きに沿って、過去が未来に影響を与える知覚体験も豊富にある。つまり、人間は一瞬の物理的世界をスライスするようにして知覚するのではなく、ある程度の時間的幅をもった物理的世界の情報を脳で編集したうえで知覚しており、あくまでも主観的には、過去や未来が、すなわち、すでに体験した現象やまだ体験していない現象が混ざり混むようにして「今」は体験されている。

『左上の海』安西水丸

p.49

気分のいい日、奥津は時々病室の窓辺まで歩いて外を見た。彼の病室は四階にあり、そこからは青山の住宅地の尾根や遠くに渋谷方面のビルが見えた。陽が西に傾くと、ビルは直線的な影を抱いて輝いた。奥津はそんな影を美しいとおもった。

 

p.172

田仲七江はトランジスタ・ラジオからのヘッド・フォンを耳にさし込んでいつも音楽を聴いていた。どちらかというと無口な方だった。それは、ぎりぎりと巻いたねじがもどらないように手でぎゅっと押えているみたいだった。ぼくには、いつか彼女の手がねじからはなれるようにおもえた。

『松本隆 言葉の教室』延江浩

p.49

人を感動させるには、まず自分の心を動かすこと。そのためには好奇心が欠かせません。

あとは、自分の心がなぜ動いたのかを問い詰める。その答えを見つけてから書く。そうすると、ああそういうことかと、人もわかってくれる。

『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹

p.13

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体に効用もないし、それに付随する救いもない。

 

p.58

バーの中はしんとして彼女の他には逆の姿もなく、夕暮の闇もそこまでは届いてはいなかった。まるで彼女自身の一部があのタクシーの中に置き忘れられてきてしまったような感じがした。彼女の一部がまだあのタクシーの後部座席に残っていて、あの夜会服を着た若い俳優と一緒にどこかのパーティ会場に向かっているような、そんな感じだった。それはちょうど揺れる船から下りて、強固な地表に立ったと感じるのと同じ種類の残存間だった。肉体が揺れ、世界がとどまっていた。

思い出せないほどの長い時間がたって、彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。彼女はそれをはっきりと感じることができた。何かが終ったのだ。

 

p.78

彼はその情事を通じてあるひとつの事実を学ぶことになった。驚いたことに、彼は既に性的に熟していたのである。彼は33歳にして、24歳の女が求めているものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていたのである。これは彼にとっての新しい発見だった。彼にはそれを与えることができるのだ。どれだけ贅肉を落としたところで、彼はもう二度と若者には戻れないのだ。

 

p.97

僕はそういった状況に追いこまれたことについて彼女に対してそれなりに腹を立ててはいたが、それと同時に美しい女を抱くという行為の中にはある種の人生のぬくもりのようなものが含まれていて、そういったぼんやりとしたガス状の感情が、既に僕の体をすっぽりとくるんでいた。僕はもうどこにも逃げだせなくなっていた。