母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『妻のオンパレード』森博嗣

p.43

人間が一番楽しめるのは、可能性を持って考える時間なのではないだろうか。これが「遊ぶ」という動詞に極めて相応しい。小さな子供が遊んでいるとき、彼は野球選手にもなれるし、正義の味方にもなれる。そういう可能性を思い描いているはずだ。大人も真剣に遊ぼう。

『愛の生活 | 森のメリュジーヌ』金井美恵子

p.35

その頃、彼は恋愛をしていて、わたしとFは婚約することを考えていた。あの頃のことは、懐かしさという優しい感情で思い出すのに、一番ふさわしい時期だった、などとわたしは言わない。そうむかしのことではない。だが、今とは完全に別の時間。場所は同じでも、別の秩序の中でしか一致することのない記憶の時間だ。別の秩序は瞬間に、わたしの内で生々しく開かれる。世界への愛として。

『イヤシノウタ』吉本ばなな

p.20

くよくよ考えたり、気取ったり、自分の良さを盛ったりしないような、そういう反射的な反応に関しても明快であれるような人生を歩みたい。

 

p.28

そのすばらしい笑顔を見ることができたのだから、人というものをまたほんの少し好きになることができるくらいの瞳の輝きを見ることができたから、あの長電話の時間の全てが一秒もむだではなかったんだ、と私は思った。

 

p.42

でもそれは「さあ、今日は黄色い葉っぱを見に代々木公演に行こう」と思って意気込んでいたならば、決してわからなかった美しさだった。

流れの中にいたから、偶然見ることができたんだと思う。

美は偶然の中にあり、ぎゅっとつかむと逃げてしまうから。

 

p.70

いつかこの日が来るとわかっていたから、いつも切なかったんだと。

いつまでもいるよとは決して言ってくれないその人のあり方が、切なかったんだと。

うそでもいいからそう言ってくれていたら、きっとこの気持ちにはならなかっただろう。

かといって恨む気持ちも全然わいてこない。

膨大な時間の積み重ねにただ呆然とするだけだ。

みんながこんなふうに呆然とできるのだったら世界は荒野ではなく花畑なんじゃないかな、とこの呆然とした感じの中にあるあまりの豊かさにしみじみ思う。

 

p.152

ほんとうは無事だろうとわかっているなかでの、お別れごっこのハグはほんとうに温かかった。万が一あれがリハーサルでなかったとしても悔いがないくらい、世界はきれいだった。

『スプートニクの恋人』村上春樹

p.8

でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。

 

p.64

ぼくはまだ若かったから、その手のカラフルな事件は人生の中でしばしば起こるものなのだろうと思った。そうではないことに気づいたのは、もっとあとになってからだ。


p.65

「注意深くなる、というのが話のポイントだよ、たぶん」とぼくは言った。「最初からあうだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと」

 

p.167

ソファに戻り、音楽が午後の光の中に書き出す小世界に心を沈めながら、ブラームスを美しく弾くことができたらどんなに素晴らしいだろうとミュウは考えた。

 

『映像のポエジア ー封印された時間』

p.23

発展することのない、いわば静的な緊張状態とでも言うべきもののなかで、情念は最大限の強さに達し、徐々に変化する場合よりも、いっそう明瞭に説得力を持って現れる。私がドストエフスキーを好きなのも、これを偏愛するゆえである。私により興味深いのは、外見は静的にみえて、内面には自らをとらえる情念のエネルギーが張りつめている人物なのだ。

 

p.24

ともかくこの詩の論理は、論理的に首尾一貫した線的なプロットの展開によってイメージを関連づける伝統的なドラマトゥルギーよりも、私にずっと近いのだ。出来事のそのような、うるさいほど〈正確な〉関連づけは、普通、独断的な見込みと、抽象的な、ときに教訓的な判断に強制されて生まれる。またたとえ登場人物の性格がプロットを決定している場合でも、関係づけの論理は、人生の複雑さを単純化することに依拠している。