母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『M/Tと森のフシギの物語』大江健三郎

p.26

祖母の話は面白いものの、あまりに不思議なところは、子供の聞き手を面白がらせるために部分的に作られた話ではないか、とも思ったことを覚えています。それでいてなんとも懐かしく、引きつけられるようであったのでした。このそれでいてということが、大切な気がしたことを覚えているのです。これはあらかた祖母様の作り話だと思うが、それでいて、懐かしく引きつけられる……

『身体の言い分』

再々再読くらい。

 

p.36

多チャンネルの人の場合は、それが深刻な矛盾にならないんですね。そういういろんなヴォイスの使い分けができる人の特徴は、メッセージのコンテつを首尾一貫させることよりも、コミュニケーシャンの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い、ということですね。コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。「互いの声が届く」ということです。

 

p.38

だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る時に言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語る時に「うるさい」ものになる。

 

p.64

武道の稽古はそのちょうど逆で、いるべき時に、いるべき場所にいる人間として今の自分をきっぱりと規定する。今、ここを肯定するというとこからでなければ何も始まらない。

 

p.97

その時に、作用を受ける側の体をさらに細かく割って割って、場(field)の中の出来事として捉えたほうが、さらにわかりやすい、というふうにわたしは考えるんです。物理でいう場というのは抽象概念ですから、本当は具象的には説明できないということをふまえつつ、モノをコトにすり替えたコンセプトで考える。すると、イメージすると人の状態が変わるという現象は、その空間内の場の中での出来事だと思えるんです。

 

p.161

社会の承認を求めていると言いながら、社会のことなんかぜんぜん見ていないんですよね。「社会的な承認」という非常にプライベートな幻想に耽溺しているだけであって、見ていないんですよ、社会そのものもそこで生きている人の姿も。

『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』みうらじゅん、リリー・フランキー

p.13

L:野球でも守備の時間は、自分たちは1点も取れませんからね。当たり前だけど守っている時間が長ければ長いほど、点を取られる可能性が高くなるわけじゃないですか。


p.15

L:だけど例えば、何年後かに車を買って、家を建てるって物質的な目標を立てて、そのとおりになったとしても、気持ち的には大した発展じゃないと思うんです。本当の発展というのは、想像できないように転がっていくことですもん。物質的な目標よりも、もっと理想的なこと。だから、自分の仕事で、世の中を変えられればいいなと思ってたら、いつの間にかバッキンガム宮殿に住んでいた、みたいなことはあるかもしれないし、そのほうが可能性はある気がする。

M:脳が愉快な勘違いをして、意外な結果が出たほうが楽しいよね。

 

p.129

M:とにかく相手の立場になって考えないとね。そうやって考えて相手の機嫌がよくなると、自分の機嫌もよくなるっていうことがわからなきゃ。機嫌なんて、本当は他人の機嫌のことなんだよね。

 

p.133

M:確かに。でも、なかなか腹をくくれず、つい人に言っちゃうのもわかるんだけどね。だって口にするかしないかの差って大きくない? 言わなきゃいいのに、ついつい不安な話とか人にしちゃうし。言葉にすると少しは正当化されるんじゃないかと思って、言っちゃうんだよね。で、言ったところでよくならないことも知ってるから、頑張って無口でいようと思うんだけど、飲むと言うね、つい(笑)。

『とるにたらないものもの』江國香織

p.33

最たるものがカクテルだ。私はカクテルが好きでよくのみにいくのだけれど、カクテルの何が好きかというと、名前が好きなの。味はあんまり好きじゃない。


p.166

どの映画にも、いかにもぴったりの音楽がついていた。娼婦はたいていチャーミングだったし、恰好いい男は滅多に結婚しなかった。

 

p.176

望まない情報にさらされることが苦痛である、という臆病かつ我儘な精神。好奇心のない子供みたいだ。

でもたぶんそのせいで、私は日々健やかに機嫌よく暮らしている。これは大事なことだと思う。

『映画の鑑賞 山崎まどか映画エッセイ集』 山崎まどか

p.8

映画を完全に手にすることなんて、きっとできないのだ。観客に残るのは、映画の記憶でしかない。ただ作品の記憶ではなく、それを見た時の自分や、見に行った場所や、映画が終わった後に見た風景を含む、その人だけの思い出だ。映画は観客の個人的なものになり、誰からも奪われない。映画のパンフレットは、その記憶を喚起する装置として機能するものであって欲しい。単なる映画鑑賞を、固有の経験に変える何かであって欲しい

『悲しみよ こんにちは』サガン/朝吹登水子訳

p.8

私は砂の上に寝そべって、そのひとつかみを手ににぎり、指の間からやわらかい黄色のひとすじの紐のように流し落した。私はそれが時のように流れ過ぎて行くと自分に言い聞かせた。それは安易な考えだ。安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。

 

p.35

「あなたは恋愛について少し単純すぎる考えを持っているわ。それは独立した感覚の連続ではないのよ」

私の恋愛はしかしみんなそうであったと思う。ある顔や、動作や、接吻したときの突然な感動……。関連のない咲き開いた瞬間……私の持っている思い出はただこうしたものだけだった。

「それは違ったものなのよ」とアンヌが言った。「そこには絶え間ない愛情、優しさ、ある人の不在を強く感じること。あなたにはまだ理解できないいろいろなこと……」

 

p.63

私は人が、この変化に複雑な理由を見つけることができること、また私に素晴らしいコンプレックスを課すことができることを知っている。父に対する近親姦的な愛情とか、あるいはアンヌへの不健全な情熱とか。けれども私は、本当の原因を知っている。それは暑さと、ベルグソンと、シリルと、でなければ少なくともシリルの不在だった。私は不愉快な状態の連続の中で、午後じゅうそのことについて考えた。