母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『成熟スイッチ』林真理子

しなやかだけど、したたかで、

おちゃめだけど、かくしんてき。

 

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とにかく矛盾するけど、

謙虚さには確かに自信が宿っていて、

愛嬌あるけどちょっと子憎たらしいみたいな。

読んでいて、

このバランス感覚こそが成熟なのではと、

思いつく。

軸が「素直さ」だから強力なのかもなぁ。

 

どっちにしたって、

憧れちゃうよ。

 

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p.21

そして私は、好奇心とは、別の人間の人生を味わってみたいということでもあると思っています。


p.32

人は年をとり、人づき合いの新陳代謝を繰り返していくうちに、人間関係に悩まないようになっていきます。自我も強くなっていくから、他人との関係に過度に依存することもなくなり、相性の悪い人の存在だってどうでもよくなってくる。

 

p.37

カウンターで繰り広げられるお二人のやりとりは、洒脱な夫婦漫才のようでした。 そのスナックから帰るタクシーの中で田辺先生がしみじみとおっしゃいました。「せいぜい六~七人しか客が来ないあんな場末のスナックで、ママは毎日綺麗な着物を着てはる。その心根が嬉しいやないの」 先生のこの言葉が、強く心に残っています。そういうことにちゃんと気づくことが出来る人になりたいな、と思ったものです。

 

p.86

ただし当然ながら、思うようにお金を遣うためには、とことん働いて稼がなければなりません。おまけに作家の仕事は入ってくるお金が読みにくいので、常に未来の収入への不安がついてまわります。これは正直な話、日大の理事長職に就いてから作家の仕事をセーブしている現在も私の場合は同じ状況です。 しかし、その大いなる不安の中でも、好きな洋服を着て面白い人たちに会い、オペラや歌舞伎を楽しみたい気持ちは変わりません。不安いっぱいで惜しみなくお金を遣うから、「死ぬほど働かなくては」というモチベーションになるのです。たくさん遣うために、たくさん働く。その繰り返しです。

『考えるヒント3』小林秀雄

おそらく再再読ぐらい。特に「信じることと知ること」は度々読んでいるけど、久しぶりに読んでみた。大事なことを見失ってないか確認する。

 

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p.11

その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、たしかに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうと言うのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。夢は余りにもなまなましい光景であったから、それをそのまま人に語ったのです。それは、その夫人にとって、たった一つの経験的事実の叙述なのです。そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえて了う。そこに根本的な間違いが行われていると言うのです。

『7月24日通り』吉田修一

街に理想を重ねるように。

何も知らないから、想像できるように。

あるゆる人たちに、自分のイメージを重ねている。

 

だからこそ、逆もあるね。

あらゆる人たちのイメージを自分に重ねる。

それで飛び込めるときがある。

なかった勇気が湧いてくることがある。

 

章立ての仕掛けというか伏線というかは

本当にお洒落だけど、

そのお洒落さ以上に泥臭さもあって、

その平衡がたまらなかった。

 

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p.99

二人の会話がどれくらい周囲に聞こえていたのか分からない。騒がしい店だったので、その音にかき消されていたのかもしれない。ただ、安藤の声は一言一句、私に聞こえた。聞こえたからこそ、勇気をふり絞った自分が不憫で、いい気になって撒き散らした自分の言葉を、床を這ってでも拾い集めたかった。

『小僧の神様/城の崎にて』志賀直哉

『佐々木の場合』

p.21

何と云う事もなく僕は自分が今幸福な身の上だと云う気がしていた。勿論世間並な意味でだが。そして富は女として不幸な境遇に居る者として考えていた。そして僕は自分が富に交渉して行くのは幸福な者が不幸な者を救おうとしているのだと云う風に考えていた。何となくそんな気持でいた。ところが今の対話はそれと全く反対な感じを与えた。幸福に暮している者に対し昔の関係を楯にそれを攪乱しようとする者のように自分が見えた。

 

『城の崎にて』

p.36

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。もうかなり暗かった。視覚は遠い灯を感ずるだけだった。足の踏む感覚も視覚を離れて、如何にも不確だった。只頭だけが勝手に動く。それが一層そういう気分に自分を誘って行った。

 

赤西蠣太

p.84

蠣太は一言もなかった。彼はそれは彼のいい性質が他人の心から反射して来るのだとは気がつかなかった。

 

『流行感冒

p.130

石は今、自家で働いている。不相変きみと一緒に時々間抜けをしては私に叱られているが、もう一週間程すると又田舎に帰って行く筈である。そして更に一週間すると結婚する筈である。良人がいい人で、石が仕合せな女となる事を私達は望んでいる。

『一人称単数』村上春樹

p.18

それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ