母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『ダンス・ダンス・ダンス(上)』村上春樹

踊り続けなきゃいけない。

とにかくステップを踏み続けなくちゃいけない。

いや、難しいよ、それ。

でもどこか『パルプ・フィクション』の最後の台詞みたいな。

だが努力はしてる。

みたいな。

 

ドライな諦観に見せかけて、

割と実直に生きる感じ。

最近読んだ『罪と罰』みたいに、「生活を取り戻せ」っていうよりは、

裡の声に耳貸まくり。

でも、この頃の村上春樹のキャラクター、

というより「僕」は、

もはや現代では、そのアンニュイさも

そんなに奇を衒っていないよね。

 

〜〜〜

 

「僕」シリーズは、ずっと『羊をめぐる冒険』で止まっていた。

その前の二作は読んだのが中学生とかで、なんだか短くてシンプルで(いやそうでもないんだけど、そう感じた)、それよりは『世界の終わり〜』とかの方が好きだった。

でも、大学一年で読んだ『羊』は

性描写ももう妄想なんかじゃなくて、

現実味はずっと増してて。

あそこでとても完成されていたし、

なんだか不意打ちに人生の胸ぐらを掴まれたのを覚えてる。

でも、そこでバッタリ止まってしまってた。

 

それから7年ぐらい経って。

とうとう、そのつづき。

 

誰かが僕を呼んでいる。

次の段階に行かなきゃいけない。

だもんな、おいらは救えないよ。

 

おい、よせよ、

もっと現実味が増してるじゃないか。

 

〜〜〜

p.27

僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入り口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかしいずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去っていった人々を。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。

 

p.126

当時はそうは思わなかったけれど、一九六九年にはまだ世界は単純だった。機動隊員に石を投げるというだけのことで、ある場合には人は自己表明を果たすことができた。それなりに良い時代だった。ソフィスティケートされた哲学のもとで、いったい誰が警官に石を投げられるだろう?いったい誰が進んで催涙ガスを浴びるだろう?それが現在なのだ。隅から隅まで網が張られている。網の外にはまた別の網がある。何処にも行けない。石を投げれば、それらワープして自分のところに戻ってくる。本当にそうなのだ。

『春宵十話』岡潔

p.12

いま、たくましさをわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。

『モラトリアム人間を考える』小此木啓吾

p.11

もし、人間に「望むこと」と「叶えること」の二つしかなかったら人間は自滅するほかはない。「知ること」があってはじめて人間は生きのびることができる。そしてこのバルザックの警告は、そのまま、われわれ現代人に向けられるべきものである。なぜならば、現代社会のわれわれは、「望むこと」がすべて「叶うこと」になる時代を迎えるにつれて、本来有限な自己の存在を成り立たせている、真の現実を「知ること」ができなくなっているからである。現実感覚は変容し、生存するためにどうしても従わねばならぬ自然の現実を「知ること」を忘れ、「願うことはすべて叶う」という社会意識が日常心理を支配してしまっている。われわれの社会意識における、意識と存在の矛盾を知ることこそ、今や急務の課題になっている。

『Xへの手紙・私小説論』小林秀雄

『一ツの脳髄』

p.17

私は、母の病気の心配、自分の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意、等の事で困憊していた。私はその当時の事を書きたいと思った。然し書き出して見ると自分が物事を判然と視ていない事に驚いた。外界と区切りをつけた幕の中で憂鬱を振り廻している自分の姿に腹を立てては失敗した。自分だけで呑み込んでいる切れ切れの夢の様な断片が出来上ると破り捨てた。

 

『からくり』

p.39

彼の眼の前に揺曳した色々は、人間の血液のスペクトルだっただろうか、それとも彼の文体そのままにナトリウムのスペクトルの様な燻がかかっていたのだろうか、俺に知れよう筈はない。だが、俺は信ずるが、彼はある色を鮮やかに見たに相違ない、その色の裡に人間共がすべて裸形にされ、精密に、的確に、静粛に、担球装置をした車軸の様に回転するのを見たに相違ない。神の兵士等に銃殺されたこの人物が垣間みたものは、正しくこの世のからくりだったひ相違ない、そして又恐らく同じあの世のからくりだったに相違ない。

俺は冷たくなった炬燵に頬杖をつき、恐る恐る思案をした。ーー俺を支えているものは俺自身ではなく、ただの俺の過去なのかもしれない。俺には何んの希望もないのだから。だけど、俺が俺の過去を労ろうとすればするほど、それは俺には赤の他人に見えて来る。

 

『Xへの手紙』

p.76

和やかな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもっているからだ。この眼こそ一番張り切った眼なのだ、一番注意深い眼なのだ。たとえこの眼を所有することが難かしい事だとしも、人は何故俺の事をあれはああいう奴と素直に言い切れないのだろう。

 

p.80

どうやら俺は、自分の費やして来た時間の長さにだけ愛着を感じている様な気がする、たとえその内容がどうあろうと。俺は別れた女に愛着を感ずるというよりも寧ろ、女が俺に残して行った足跡に就いて思案している。

 

p.82

俺は恋愛の裡にほんとうの意味があるかどうかという様な事は知らない、だが少くともほんとうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもっているという事は、彼等が夢みている証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切っている、傍人には酔っていると見える歩道覚め切っているものだ。この時くらい人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧となっていよいよ生き生きとしてくる時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。

 

『様々なる意匠』

p.116

人は如何にして批評というものと自意識というものとを区別し得よう。彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚するとは自覚する事である事を明瞭に悟った点に存する。批判の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事でない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!

 

p.120

凡そあらゆる観念学は人間の意識に決してその基礎を置くものではない。マルクスが言った様に、「意識とは意識された存在以外の何物でもあり得ない」のである。或る人の観念学は常にその人の全存在にかかっている。その人の宿命にかかっている。怠惰も人間のある種の権利であるから、或る小説家が観念学に無関心でいる事は何等差支えない。然し、観念学を支持するものは、常に理念ではなく人間の生活の意力である限り、それは一つの現実である。或る現実に無関心でいる事は許されるが、現実を嘲笑する事は誰にも許されてはいない。

『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ/千野栄一訳

p.8

永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェ永劫回帰という考えをもっとも重い荷物と呼んだ理由である。

もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現われうるのである。

 

p.16

目を覚まさせないかと恐れながら、手をときはなさずに、もっとよく彼女を眺めようとそおっと寝返りを打った。

 

p.41

彼とテレザとの愛は美しくあったが、世話のやけるものであった。絶えず何かをかくし、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢により告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らねばならなかった。この苦労が今や消え去り、美しさが残った。

 

p.64

ただ偶然だけがメッセージとしてあらわれてくることができるのである。必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに話しかける。それを、ジプシーの女たちがカップの底に残ったコーヒーのかすが作る模様を読むように、読みとろうと努めるのである。

 

p.68

それはまさしく作曲のように構成されている。美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事(ベートべンの音楽、駅での死)をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲に残るのである。モチーフは人生にもどってき、人生を繰り返させ、変え、発展させるが、それは作曲家が自分のソナタのテーマをそうするようなものである。アンナは自分の人生を違うふうに送ることもできた。しかし、恋の誕生と結びついた駅と死という忘れがたいモチーフは絶望の瞬間に自らの暗い美しさによって彼女を引きつけた。人間は救いようのない絶望のときでさえも、自分の人生が美の諸法則によって構成されていると言うことを知らずにいるのである。

 

p.77

たえず「どこか上へ」と望む者は、いつの日かめまいに見舞われるということを考えに入れておかなければならない。めまいとは何であろうか?落下への恐怖?でもなぜ安全のために手すりの付いている展望台でめまいがおこるのであろうか?めまいは落下への恐怖とはいささか違うものである。めまいとは、われわれの下にある深みがわれわれを引き寄せ、誘い、われわれが恐ろしさに駆られて身を守ろうとする落下への憧れをよびおこす。

 

p.112

人がまだ若いうちは、人生の曲はまだ出だしの数小節のところなので、それを一緒に書き、(トマーシュとサビナが山高帽のモチーフを交換したように)そのモチーフを交換できるが、もう年がいってから出会うと、二人の曲は大なり小なりできあがっていて、一つ一つのことば、一つ一つの対象がそれぞれの人の曲の中で何か別の意味を持つのである。

 

p.156

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

『スモール・イズ・ビューティフル 人間中心の経済学』E・F・シューマッハー/小島慶三・酒井懋訳

p.27

工業文明は再生不能の資本をのんきに所得と思いこんで、それに頼っているのである。私は、そういう資本として三つのものをあげた。化石燃料と自然の許容度と人間性である。

 

p.44

科学・技術の方法や道具は、

ーーー安くてほとんどだれでも手に入れられ、

ーーー小さな規模で応用でき、

ーーー人間の創造力を発揮させるような、

ものでなくてはならない。

以上の三つの特徴から非暴力が生まれ、また永続性のある人間対自然の関係が生まれてくる。もしこの三つのうちの一つでもないがしろにされると、ものごとは必ずつまずく。

『私の幸福論』福田恒存

p.23

もちろん、長所のない人間などいるわけはありません。しかし弱点をとりかえそうとして、激しい気もちで長所の芽ばえにすがりつき、それを守ろうとすれば、かならずそこに歪みが生じます。自分は顔がまずい。だから、ひとに指一本さされぬよう、立派に生きようという心がけは殊勝ですが、そういう意気ごみから育てられた長所というものは、なるほど外見はしっかりして頼もしそうにみえますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人にたいする不寛容のつめたさがあるのがつねです。

 

p.24

人間の心理というのは、自分のことながら、いや、自分のことであればこそ、よほどうまく操らないと、しまいには自分でも操りきれぬ手に負えない存在と化してしまうものです。はじめの出発点が大事です。

まず自分の弱点を認めること。

 

p.36

社会や家庭という自分以外のものの存在に気づき、それによって自我意識が生じるとともに、今度は逆に自我の敵として社会や家庭をとらえはじめるのはいいのですが、もうすこし、その自我意識を徹底させていってごらんなさい。ままにならぬのは、家庭や社会ばかりではなくて、ほかならぬ自分自身だということに気づくでしょう。

 

p.49

勝とうという努力を抛棄し、なにもかも投げだしてしまったあとの、なにもしなくていい気楽な状態を私たちは望んでいたのです。いわば責任からの逃避であり、自由からの逃避であります。

自由とは、責任のことであり、重荷であります。

 

p.51

ただ今日、自由ということばが、あまりに安っぽく用いられているので、自由とは大変面倒なものだということ、みなさんも、いざとなれば、自由など要らないといいだしかねないこと、私はそれを注意しておきたかったのです。

まえにも申しましたように、自由とは、なにかをなしたい要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられております。

 

p.69

もし青春ということばに真の意味を与えるなら、それは信頼を失わぬ力だといえないでしょうか。不信の念、ひがみ、それこそ年老いて、可能性を失ったひとたちのものです。たとえ年をとっても、信頼という柔軟な感覚さえ生きていれば、その人は若いのです。


p.70

それは他人や社会にたいする批判力に眼をつぶらせろということを意味しはしません。懐疑し、批判し、裁いたのちに、なお残る信頼の力でなければならない。だからこそ、力といっているのであります。理窟ではありません。さらに附け加えるなら、その力が残らぬような懐疑や批判だったら、それはみなさんの手に余る危険なものです。構わないから投げすてておしまいなさい。