母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『存在の耐えられない軽さ』ミラン・クンデラ/千野栄一訳

p.8

永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェ永劫回帰という考えをもっとも重い荷物と呼んだ理由である。

もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとして現われうるのである。

 

p.16

目を覚まさせないかと恐れながら、手をときはなさずに、もっとよく彼女を眺めようとそおっと寝返りを打った。

 

p.41

彼とテレザとの愛は美しくあったが、世話のやけるものであった。絶えず何かをかくし、装い、偽り、改め、彼女をご機嫌にさせておき、落ち着かせ、絶えず愛を示し、彼女の嫉妬、彼女の苦しみ、彼女の夢により告訴され、有罪と感じ、正当性を証明し、謝らねばならなかった。この苦労が今や消え去り、美しさが残った。

 

p.64

ただ偶然だけがメッセージとしてあらわれてくることができるのである。必然的におこることや、期待されていること、毎日繰り返されることは何も語らない。ただ偶然だけがわれわれに話しかける。それを、ジプシーの女たちがカップの底に残ったコーヒーのかすが作る模様を読むように、読みとろうと努めるのである。

 

p.68

それはまさしく作曲のように構成されている。美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事(ベートべンの音楽、駅での死)をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲に残るのである。モチーフは人生にもどってき、人生を繰り返させ、変え、発展させるが、それは作曲家が自分のソナタのテーマをそうするようなものである。アンナは自分の人生を違うふうに送ることもできた。しかし、恋の誕生と結びついた駅と死という忘れがたいモチーフは絶望の瞬間に自らの暗い美しさによって彼女を引きつけた。人間は救いようのない絶望のときでさえも、自分の人生が美の諸法則によって構成されていると言うことを知らずにいるのである。

 

p.77

たえず「どこか上へ」と望む者は、いつの日かめまいに見舞われるということを考えに入れておかなければならない。めまいとは何であろうか?落下への恐怖?でもなぜ安全のために手すりの付いている展望台でめまいがおこるのであろうか?めまいは落下への恐怖とはいささか違うものである。めまいとは、われわれの下にある深みがわれわれを引き寄せ、誘い、われわれが恐ろしさに駆られて身を守ろうとする落下への憧れをよびおこす。

 

p.112

人がまだ若いうちは、人生の曲はまだ出だしの数小節のところなので、それを一緒に書き、(トマーシュとサビナが山高帽のモチーフを交換したように)そのモチーフを交換できるが、もう年がいってから出会うと、二人の曲は大なり小なりできあがっていて、一つ一つのことば、一つ一つの対象がそれぞれの人の曲の中で何か別の意味を持つのである。

 

p.156

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。しかしいったい何がサビナに起こったのであろうか?何も。一人の男と別れたかったから捨てた。それでつけまわされた?復讐された?いや。彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。