母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『どうやらオレたち、いずれ死ぬっつーじゃないですか』みうらじゅん、リリー・フランキー

p.13

L:野球でも守備の時間は、自分たちは1点も取れませんからね。当たり前だけど守っている時間が長ければ長いほど、点を取られる可能性が高くなるわけじゃないですか。


p.15

L:だけど例えば、何年後かに車を買って、家を建てるって物質的な目標を立てて、そのとおりになったとしても、気持ち的には大した発展じゃないと思うんです。本当の発展というのは、想像できないように転がっていくことですもん。物質的な目標よりも、もっと理想的なこと。だから、自分の仕事で、世の中を変えられればいいなと思ってたら、いつの間にかバッキンガム宮殿に住んでいた、みたいなことはあるかもしれないし、そのほうが可能性はある気がする。

M:脳が愉快な勘違いをして、意外な結果が出たほうが楽しいよね。

 

p.129

M:とにかく相手の立場になって考えないとね。そうやって考えて相手の機嫌がよくなると、自分の機嫌もよくなるっていうことがわからなきゃ。機嫌なんて、本当は他人の機嫌のことなんだよね。

 

p.133

M:確かに。でも、なかなか腹をくくれず、つい人に言っちゃうのもわかるんだけどね。だって口にするかしないかの差って大きくない? 言わなきゃいいのに、ついつい不安な話とか人にしちゃうし。言葉にすると少しは正当化されるんじゃないかと思って、言っちゃうんだよね。で、言ったところでよくならないことも知ってるから、頑張って無口でいようと思うんだけど、飲むと言うね、つい(笑)。

『とるにたらないものもの』江國香織

p.33

最たるものがカクテルだ。私はカクテルが好きでよくのみにいくのだけれど、カクテルの何が好きかというと、名前が好きなの。味はあんまり好きじゃない。


p.166

どの映画にも、いかにもぴったりの音楽がついていた。娼婦はたいていチャーミングだったし、恰好いい男は滅多に結婚しなかった。

 

p.176

望まない情報にさらされることが苦痛である、という臆病かつ我儘な精神。好奇心のない子供みたいだ。

でもたぶんそのせいで、私は日々健やかに機嫌よく暮らしている。これは大事なことだと思う。

『映画の鑑賞 山崎まどか映画エッセイ集』 山崎まどか

p.8

映画を完全に手にすることなんて、きっとできないのだ。観客に残るのは、映画の記憶でしかない。ただ作品の記憶ではなく、それを見た時の自分や、見に行った場所や、映画が終わった後に見た風景を含む、その人だけの思い出だ。映画は観客の個人的なものになり、誰からも奪われない。映画のパンフレットは、その記憶を喚起する装置として機能するものであって欲しい。単なる映画鑑賞を、固有の経験に変える何かであって欲しい

『悲しみよ こんにちは』サガン/朝吹登水子訳

p.8

私は砂の上に寝そべって、そのひとつかみを手ににぎり、指の間からやわらかい黄色のひとすじの紐のように流し落した。私はそれが時のように流れ過ぎて行くと自分に言い聞かせた。それは安易な考えだ。安易なことを考えるのは快いと自分に言い聞かせた。夏だもの。

 

p.35

「あなたは恋愛について少し単純すぎる考えを持っているわ。それは独立した感覚の連続ではないのよ」

私の恋愛はしかしみんなそうであったと思う。ある顔や、動作や、接吻したときの突然な感動……。関連のない咲き開いた瞬間……私の持っている思い出はただこうしたものだけだった。

「それは違ったものなのよ」とアンヌが言った。「そこには絶え間ない愛情、優しさ、ある人の不在を強く感じること。あなたにはまだ理解できないいろいろなこと……」

 

p.63

私は人が、この変化に複雑な理由を見つけることができること、また私に素晴らしいコンプレックスを課すことができることを知っている。父に対する近親姦的な愛情とか、あるいはアンヌへの不健全な情熱とか。けれども私は、本当の原因を知っている。それは暑さと、ベルグソンと、シリルと、でなければ少なくともシリルの不在だった。私は不愉快な状態の連続の中で、午後じゅうそのことについて考えた。

『成熟スイッチ』林真理子

しなやかだけど、したたかで、

おちゃめだけど、かくしんてき。

 

〜〜〜

 

とにかく矛盾するけど、

謙虚さには確かに自信が宿っていて、

愛嬌あるけどちょっと子憎たらしいみたいな。

読んでいて、

このバランス感覚こそが成熟なのではと、

思いつく。

軸が「素直さ」だから強力なのかもなぁ。

 

どっちにしたって、

憧れちゃうよ。

 

〜〜〜

 

p.21

そして私は、好奇心とは、別の人間の人生を味わってみたいということでもあると思っています。


p.32

人は年をとり、人づき合いの新陳代謝を繰り返していくうちに、人間関係に悩まないようになっていきます。自我も強くなっていくから、他人との関係に過度に依存することもなくなり、相性の悪い人の存在だってどうでもよくなってくる。

 

p.37

カウンターで繰り広げられるお二人のやりとりは、洒脱な夫婦漫才のようでした。 そのスナックから帰るタクシーの中で田辺先生がしみじみとおっしゃいました。「せいぜい六~七人しか客が来ないあんな場末のスナックで、ママは毎日綺麗な着物を着てはる。その心根が嬉しいやないの」 先生のこの言葉が、強く心に残っています。そういうことにちゃんと気づくことが出来る人になりたいな、と思ったものです。

 

p.86

ただし当然ながら、思うようにお金を遣うためには、とことん働いて稼がなければなりません。おまけに作家の仕事は入ってくるお金が読みにくいので、常に未来の収入への不安がついてまわります。これは正直な話、日大の理事長職に就いてから作家の仕事をセーブしている現在も私の場合は同じ状況です。 しかし、その大いなる不安の中でも、好きな洋服を着て面白い人たちに会い、オペラや歌舞伎を楽しみたい気持ちは変わりません。不安いっぱいで惜しみなくお金を遣うから、「死ぬほど働かなくては」というモチベーションになるのです。たくさん遣うために、たくさん働く。その繰り返しです。

『考えるヒント3』小林秀雄

おそらく再再読ぐらい。特に「信じることと知ること」は度々読んでいるけど、久しぶりに読んでみた。大事なことを見失ってないか確認する。

 

〜〜〜

 

p.11

その話は正しいか正しくないか、つまり夫人が夢を見た時、たしかに夫は死んだか、それとも、夫は生きていたかという問題に変えてしまうと言うのです。しかし、その夫人はそういう問題を話したのではなく、自分の経験を話したのです。夢は余りにもなまなましい光景であったから、それをそのまま人に語ったのです。それは、その夫人にとって、たった一つの経験的事実の叙述なのです。そこで結論はどうかというと、夫人の経験の具体性をあるがままに受取らないで、これを果して夫は死んだか、死ななかったかという抽象的問題に置きかえて了う。そこに根本的な間違いが行われていると言うのです。