母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『7月24日通り』吉田修一

街に理想を重ねるように。

何も知らないから、想像できるように。

あるゆる人たちに、自分のイメージを重ねている。

 

だからこそ、逆もあるね。

あらゆる人たちのイメージを自分に重ねる。

それで飛び込めるときがある。

なかった勇気が湧いてくることがある。

 

章立ての仕掛けというか伏線というかは

本当にお洒落だけど、

そのお洒落さ以上に泥臭さもあって、

その平衡がたまらなかった。

 

〜〜〜

 

p.99

二人の会話がどれくらい周囲に聞こえていたのか分からない。騒がしい店だったので、その音にかき消されていたのかもしれない。ただ、安藤の声は一言一句、私に聞こえた。聞こえたからこそ、勇気をふり絞った自分が不憫で、いい気になって撒き散らした自分の言葉を、床を這ってでも拾い集めたかった。

『小僧の神様/城の崎にて』志賀直哉

『佐々木の場合』

p.21

何と云う事もなく僕は自分が今幸福な身の上だと云う気がしていた。勿論世間並な意味でだが。そして富は女として不幸な境遇に居る者として考えていた。そして僕は自分が富に交渉して行くのは幸福な者が不幸な者を救おうとしているのだと云う風に考えていた。何となくそんな気持でいた。ところが今の対話はそれと全く反対な感じを与えた。幸福に暮している者に対し昔の関係を楯にそれを攪乱しようとする者のように自分が見えた。

 

『城の崎にて』

p.36

生きている事と死んで了っている事と、それは両極ではなかった。それ程に差はないような気がした。もうかなり暗かった。視覚は遠い灯を感ずるだけだった。足の踏む感覚も視覚を離れて、如何にも不確だった。只頭だけが勝手に動く。それが一層そういう気分に自分を誘って行った。

 

赤西蠣太

p.84

蠣太は一言もなかった。彼はそれは彼のいい性質が他人の心から反射して来るのだとは気がつかなかった。

 

『流行感冒

p.130

石は今、自家で働いている。不相変きみと一緒に時々間抜けをしては私に叱られているが、もう一週間程すると又田舎に帰って行く筈である。そして更に一週間すると結婚する筈である。良人がいい人で、石が仕合せな女となる事を私達は望んでいる。

『一人称単数』村上春樹

p.18

それでも、もし幸運に恵まれればということだが、ときとしていくつかの言葉が僕らのそばに残る。彼らは夜更けに丘の上に登り、身体のかたちに合わせて掘った小ぶりな穴に潜り込み、気配を殺し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹きやむと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、しばしば多義的な表現手段しか持ち合わせない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公正な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ

 

 

『堕落論』坂口安吾

p.7

だから、昔日本に行なわれていたことが、昔行なわれていたために、日本本来のものだということは成り立たない。外国において行なわれ、日本には行なわれていなかった習慣が実は日本人にふさわしいこともあり得るのだ。模倣ではなく、発見だ。

 

p.21

京都や奈良の寺々は大同小異、深く記憶にも残らないが、今もなお、車折神社の石の冷たさは僕の手に残り、伏見稲荷の俗悪きわまる赤い鳥居の一里に余るトンネルを忘れることができない。見るからに醜悪で、てんで美しくないのだが、人の悲願と結びつくとき、まっとうに胸を打つものがあるのである。これは、「無きに如かざる」ものではなく、そのあり方が卑小俗悪であるにしても、なければならぬ物であった。そうして、竜安寺の石庭で休息したいとは思わないが、嵐山劇場のインチキ・レビューを眺めながら物思いに耽りたいとは時に思う。人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、あるはずがない。郷愁のない木立の下で休息しようとは思わないのだ。

 

p.30

このような微妙な心、秘密な匂いをひとつひとつ意識しながら生活している女の人にとっては、一時間一時間が抱きしめたいようにたいせつであろうと僕は思う。自分の身体のどんな小さなもの、一本の髪の毛でも眉毛でも、僕らにわからぬ「いのち」が女の人には感じられるのではあるまいか。

 

p.63

自殺した牧野信一はハイカラな人で、人の前で泥くさい自分をさらけだすことを最も怖れ慎んでいた人だったのに、神前や仏前というと、どうしても素通りのできない人で、この時ばかりは誰の目もはばからず、必ずお賽銭をあげて丁寧に拝む人であった。その素直さが非常に羨ましいと思ったけれども、僕はどうしてもいっしょに並んで拝む勇気が起こらず、離れた場所で鳩の豆を蹴とばしたりしていた。

 

p.71

 あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人たちは、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。

 

p.73

 人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。

 

『現代思想入門』千葉雅也

p.13

現代思想は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。 人間は歴史的に、社会および自分自身を秩序化し、ノイズを排除して、純粋で正しいものを目指していくという道を歩んできました。そのなかで、二〇世紀の思想の特徴は、排除される余計なものをクリエイティブなものとして肯定したことです。

 

p.28

物事はいわば「仮固定的」な同一性と、ズレや変化が混じり合って展開していくのですが、こうした仮固定的同一性と差異のあいだのリズミカルな行き来が現代思想の本当の醍醐味である、ということになるでしょう。

 

p.36

大きく言って、二項対立でマイナスだとされる側は、「他者」の側です。脱構築の発想は、余計な他者を排除して、自分が揺さぶられず安定していたいという思いに介入するのです。自分が自分に最も近い状態でありたいということを揺さぶるのです。「自分が自分に最も近い状態である」というのは哲学的な言い回しかもしれませんが、それがつまり同一性です。それは自分の内部を守ることです。それに対して、デリダ脱構築は、外部の力に身を開こう、「自分は変わらないんだ。このままなんだ」という鎧を破って他者のいる世界の方に身を開こう、ということを言っているのです。

 

p.38

すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということではなく、つねに未練を伴っているのであって、そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。我々は決断を繰り返しながら、未練の泡立ちに別の機会にどう応えるかということを考え続ける必要があるのです。 脱構築的に物事を見ることで、偏った決断をしなくて済むようになるのではなく、我々は偏った決断をつねにせざるをえないのだけれど、そこにヴァーチャルなオーラのように他者性への未練が伴っているのだということに意識を向けよう、ということになる。それがデリダ的な脱構築の倫理であり、まさにそうした意識を持つ人には優しさがあるということなのだと思います。

 

p.76

ある種の「新たなる古代人」になるやり方として、内面にあまりこだわりすぎず自分自身に対してマテリアルに関わりながら、しかしそれを大規模な生政治への抵抗としてそうする、というやり方がありうるのだと思います。それは新たに世俗的に生きることであり、日常生活のごく即物的な、しかし過剰ではないような個人的秩序づけを楽しみ、それを本位として、世間の規範からときにはみ出してしまっても、「それが自分の人生なのだから」と構わずにいるような、そういう世俗的自由だと思うのです。後期フーコーが見ていた独特の古代的あり方をそのようにポストモダン状況に対する逃走線として捉え直すこともできるのではないでしょうか。

 

p.88

精神分析の本当のところは、記憶のつながりを何かの枠組みに当てはめることではなく、ありとあらゆることを芋づる式に引きずり出して、時間をかけてしゃべっていく過程を経て、徐々に、自分が総体として変わっていくことなのです。どう変わるかはわかりません。ただ、これはやはり一種の治療であり、何とも言いにくいかたちで、自分のあり方がより「しっかり」していくのだと言えると思います。精神分析は時間を節約してパッパと済ませることができません。精神分析経験とは、ひじょうに時間をかけて自分の記憶の総体を洗い直していく作業なのです。

 

 

p.91

物語的意味ではない意味を世界に、自分自身に見る。それが「構造」を見るということであり、しかもその構造は動的でリズミカルなものです。構造とは、諸々の偶然的な出来事の集まりなのです。 まとめるならば、ディオニュソス的なものとは抑圧された無意識であり、それは物語的意味の下でうごめいているリズミカルな出来事の群れだということです。それが、下部構造なのです。

 

P.98

同じ土俵、同じ基準でみんなと競争して成功しなければという強迫観念から逃れるには、自分自身の成り立ちを遡ってそれを偶然性へと開き、たまたまこのように存在しているものとしての自分になしうることを再発見することだと思うのです。

 

p.105

欲動において成立する生・性のあり方は、たとえそれが異性愛のようなマジョリティの形式と一致するにしても、すべては欲動として再形成されたものだから、その意味においてすべてが本能からの逸脱です。つまり、極論的ですが、本能において異性間での生殖が大傾向として指定されていても、それは欲動のレベルにおいて一種の逸脱として再形成されることによって初めて正常化されることになるのです。 そのように欲動のレベルで成立するすべての対象との接続を、精神分析では「倒錯」と呼びます。したがって、人間は本能のままに生きているということはなく、欲動の可塑性をつねに持っているという意味で、人間がやっていることはすべて倒錯的なのだということになります。こういう発想は、正常と異常=逸脱という二項対立を脱構築しているわけです。我々が正常と思っているものも「正常という逸脱」、「正常という倒錯」です。本能的傾向と欲動の可塑性のダブルシステムを考えるというのがここで言いたいことです。

 

p.134

デリダドゥルーズフーコーにおいて共通して問題とされているのは、「これが正しい意味だ」と確定できず、つねに視点のとり方によって意味づけが変動するという、意味の決定不可能性、あるいは相対性です。

ただし、これが言わんとするのは、決定不可能だから何も言えないということではなく、「物事は複雑だ」ということです。多義的、両義的だということです。

〜〜〜

人間はそもそも精神分析的に言っても「過剰」な存在であって、一定の意味の枠組みを離れて物事を別様に意味づけようとする傾向があるので、それが突拍子もないような妄想に展開することは人間の基本設定としてありうるわけです。

 

p.144

どうしようもなく悩むことが深い生き方であるかのような人間観が近代によって成立し、それがさまざまな芸術を生み出したわけですが、そこから距離をとり、世俗的に物事に取り組んでいくことは、人間が平板になってしまうことなのでしょうか? そうではありません。むしろそのような世俗性にこそ、巨大な悩みを抱えるのではない別の人生の深さ、喜劇的と言えるだろう深さがあるのではないでしょうか。 

問題に取り組むというのは、ただ解釈をこねくり回しているのではなく、実際にアクションをし、ほんの少しでも世界を動かそうとすることです。そこで動いているのは何か。思考だけではありません。身体が、事物が、物質が動いているのです。個々の問題にはもちろん困難なものがあり、それはストレスを強いるわけですが、その苦しみを無限の悩みから区別する。 

そういう意味において、メイヤスーが示した、無限の解釈ではなく事物それ自体へという方向性は、僕がフーコーから抽出した、古代的な=オルタナティブな有限性を生きるという生き方と関係してきます。 オルタナティブな有限性とは、行動の有限性、身体の有限性に他なりません。


p.145

身体の根底的な偶然性を肯定すること、それは、無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組むことである。 世界は謎の塊ではない。散在する問題の場である。 底なし沼のような奥行きではない別の深さがある。それは世俗性の新たな深さであり、今ここに内在することの深さです。そのとき世界は、近代的有限性から見たときとは異なる、別種の謎を獲得するのです。我々を闇に引き込み続ける謎ではない、明るく晴れた空の、晴れているがゆえの謎めきです。