母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『すべてはモテるためである』二村ヒトシ

読みやすいのに、ところどころギクっとくる。

全員を幸せにできないから寂しくなってきた、みたいな話は今でも心に残る。

 


p.29

活字だからってすぐ丸呑みにして信用すんな、ってことは、もちろん、この本に対しても言えることです。それと「読むスピードは読んでる人が勝手に決めていいんだ」というのが、本を読むという行為のカッコいいところです。

 

p.34

「ちゃんと考えられる人」が「暗くて重い」というのは、誤解です。 暗くなるということは「考えが堂々めぐりをしてる」ってことなんです。 ちゃんと考えられれば、とりあえず結論がでます。というか「どう動くべきか」の結論が出るように(しかも借り物の結論じゃなく、自分で)考えられるのが「ちゃんと考える」ということです。明るい、ってことは「それを、さくっと実行しちゃう意志の力もある」ってことですし、相手と自分との関係についてちゃんと考えられる、ってことは「なるべくスムーズに相手と同じ土俵に乗っかって、相手と同じルールで動ける、遊べる方法を考えつく」ってことです。

 

p.67

自分の人生の一部に、ちゃんとハマってください。本気でハマらなきゃダメです。

 

p.72

「自分のプライドを守る」ってことに異常にすばやく、かしこいんです。

誰かがあなたの【痛い部分】に触ろうとすると、あなたは、ものすごい速さで逃げる。

言葉としては理解しながら、そのことを【自分の問題として】受けとめられない。

その鉄壁の守りを崩したほうが幸せになれるんですけどね。そのためには、自分のプライドが通用しない世界に行って痛い目を見るしかないでしょう。

 

p.106

対話とは、相手の言ってることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。それから「自分の肚を見せる」ことです。それはキャバクラでの会話のしかた、風俗でエッチなことをする前にすべき話しかたと、さらに言うとエッチの上手なやりかたとも、同じです。「対話できる」ということが、つまり「相手と同じ土俵に乗れる」ということなんです。

 

p.109

上から目線ではなく相手の話を聴く、つまり「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聴いたことによって)変わる」つもりがあって話を聴いてるかどうか、あなたの側に【変化する気】があるかどうか、ということです。 それは、変化する【勇気】があるか、ということでもあるでしょう。

文喫 2022.4.9

『どもる体』伊藤亜紗

p.83

もちろん、そのような力が人間のコミュニケーションにとって常に必要なわけではないし、実際には単なるノイズになることのほうがはるかに多いでしょう。けれども、言葉を操る意識を押し流してしまうほどの興奮の塊を目の前にすると、私たちはとてつもない魅力を感じることがあります。

武満徹が吃音に見出したのも、そのような魅力でしょう。「職業化された話し方のそらぞらしさ」とは違う、「体と結びついた強さ」が吃音にはあると武満は言います。「どもりは行動によって充足する。その表現は、絶えず全身的になされる。少しも観念に堕することがない」。

 

『写真的思考』飯沢耕太郎

p.13

写真は静止画像であるがゆえに、画面の隅々まで視線を走らせ、その細部をほぼ同時に、何度でも味わいつくすことができる。動画では不可能な読みの厚み、予知や記憶を総動員した思考の運動が可能になってくるのだ。

 

p.19

『センチメンタルな旅』の陽子は、胎児であり、生者であり、同時に死者でもある。そこでは過去・現在・未来が入り混じり、予感と記憶が絡みあう。むろんこのような神話的思考が、あまりダイナミックに働かないような写真もあるだろう。

 

読めなかった本

『必然的にばらばらなものが生まれてくる』田中功起

『芸術の中動態 受容/制作の基層』森田亜紀

『心にとって時間とは何か』青山拓央

p.24

私は現在、認知症でなく、自分がいつの時期の自分か分からなくなることもないが、おそらくは、いま開いているページの開かれ方が若干弱い。だから、ときどき、このページを開いているものの「本当に今はこのページだったか?」と疑念をもつーーそしてしおりを挟むーーことになる。とはいえ、私はそのことであまり辛い気持ちにならない。むしろ私的にはこの疑念は「ドッキリ」番組のような明るさをもっており、急にやって来たテレビタレントに「あなたがここまで生きてきた、というのは冗談でした」と言われて「なんだ」と笑うような心象を伴っている。

 

p.43

以上、未来が過去に影響するかのような不思議な現象を見てきたが、もちろん、通常の因果の向きに沿って、過去が未来に影響を与える知覚体験も豊富にある。つまり、人間は一瞬の物理的世界をスライスするようにして知覚するのではなく、ある程度の時間的幅をもった物理的世界の情報を脳で編集したうえで知覚しており、あくまでも主観的には、過去や未来が、すなわち、すでに体験した現象やまだ体験していない現象が混ざり混むようにして「今」は体験されている。

『左上の海』安西水丸

p.49

気分のいい日、奥津は時々病室の窓辺まで歩いて外を見た。彼の病室は四階にあり、そこからは青山の住宅地の尾根や遠くに渋谷方面のビルが見えた。陽が西に傾くと、ビルは直線的な影を抱いて輝いた。奥津はそんな影を美しいとおもった。

 

p.172

田仲七江はトランジスタ・ラジオからのヘッド・フォンを耳にさし込んでいつも音楽を聴いていた。どちらかというと無口な方だった。それは、ぎりぎりと巻いたねじがもどらないように手でぎゅっと押えているみたいだった。ぼくには、いつか彼女の手がねじからはなれるようにおもえた。

『松本隆 言葉の教室』延江浩

p.49

人を感動させるには、まず自分の心を動かすこと。そのためには好奇心が欠かせません。

あとは、自分の心がなぜ動いたのかを問い詰める。その答えを見つけてから書く。そうすると、ああそういうことかと、人もわかってくれる。

『回転木馬のデッド・ヒート』村上春樹

p.13

自己表現が精神の解放に寄与するという考えは迷信であり、好意的に言うとしても神話である。少なくとも文章による自己表現は誰の精神をも解放しない。もしそのような目的のために自己表現を志している方がおられるとしたら、それは止めた方がいい。自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体に効用もないし、それに付随する救いもない。

 

p.58

バーの中はしんとして彼女の他には逆の姿もなく、夕暮の闇もそこまでは届いてはいなかった。まるで彼女自身の一部があのタクシーの中に置き忘れられてきてしまったような感じがした。彼女の一部がまだあのタクシーの後部座席に残っていて、あの夜会服を着た若い俳優と一緒にどこかのパーティ会場に向かっているような、そんな感じだった。それはちょうど揺れる船から下りて、強固な地表に立ったと感じるのと同じ種類の残存間だった。肉体が揺れ、世界がとどまっていた。

思い出せないほどの長い時間がたって、彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。彼女はそれをはっきりと感じることができた。何かが終ったのだ。

 

p.78

彼はその情事を通じてあるひとつの事実を学ぶことになった。驚いたことに、彼は既に性的に熟していたのである。彼は33歳にして、24歳の女が求めているものを過不足なくきちんと与えることができるようになっていたのである。これは彼にとっての新しい発見だった。彼にはそれを与えることができるのだ。どれだけ贅肉を落としたところで、彼はもう二度と若者には戻れないのだ。

 

p.97

僕はそういった状況に追いこまれたことについて彼女に対してそれなりに腹を立ててはいたが、それと同時に美しい女を抱くという行為の中にはある種の人生のぬくもりのようなものが含まれていて、そういったぼんやりとしたガス状の感情が、既に僕の体をすっぽりとくるんでいた。僕はもうどこにも逃げだせなくなっていた。