母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『アンビエント・ドライヴァー』細野晴臣

もうさ、声が聞こえんのよ、細野さんの。

低い、良い意味でスキだらけのじっとりした喋り方が。

 

そして、やっぱり彼のパーソナリティというか、言葉そのものに飾り付けがなくて、かっこよく見せようとか深いこと言おうとか吃驚させてやろうとか、そういうのはない。

ただ身の丈にあった言葉や考え方をお伝えしている感じ。

 

ネイティブアメリカンの思想が割と出てくるけど、

なんだか馴染みがなくて、妙に面白い。禅味もあったり。

傾倒してたんだなぁ、ハマってたんだなぁってバレバレな感じも、人間味たっぷりの「スキ」があって良いよね。

 

〜〜〜

 

アンビエントに接続されていく感覚。

一周回って納得いく感覚。

思考も身体も変わる変わる変わる。

 

〜〜〜

 

p.21

跳ねれば能天気になり、跳ねていなければクソ真面目になる。その中間をとるという微妙なテンションのなかで、だんだんハイになっていく強い快感のあるビートであった。

 

p.27

ネイティヴ・アメリカンの教えのなかには、モノとモノとの間を見極めなければならないというのがある。密教では曼荼羅を見るが、それは曼荼羅そのものを見るのではなく、3Dの絵を見るときのようなモノの見え方を教えているのだという。つまり目の使い方、ひいては心の使い方を勉強しろということだろう。

もちろん、モノをないがしろにすれば単なる精神主義に陥ってしまう。〜 モノを失くすと、モノとモノの間が見えてくる。

 

p.33

同意があったと思う根底に精霊信仰があれぼ、どこか大地に根ざした安心感があるものだ。何かが見えたり、変な声が聞こえたりするのは困るけれど、クッションを通してやわらかくメッセージを受け取るような日々はいい。

 

p.91

変わりたくないと思うのが人間の基本だが、それはドン・ファンのいう「集合点の移動」に抵抗しているのだと思う。集合点ーーつまり世界の見方のアルゴリズムを移動させたくない。だが、それがちょっとしたきっかけで変わっていってしまうのが、宇宙の法則なのだろう。たとえば、眉毛をちょっと細くするだけで、意識が変わってしまうように。

安定か不安定か、幸福か不幸か。僕たちは現代の神話ともいうべき妄想を叩き込まれ、自分がそのシーソーのどちら側にいるのかということばかり考えがちだ。集合点を移動させることは、そのシーソーから降りることにらほかならない。


p.94

このときの瞑想はとても深いものだった。未来の自分のイメージが出てきて、それが現在の自分を俯瞰している。そして、未来の自分のほうが自分の本体だと感じられ、僕は瞑想している現在の自分の姿を見て哀れに思った。つまり客観性を持てたというわけだ。瞑想が終わって元に戻ったとき、僕には本体の自分がいるのだということがわかっていた。また、その存在に助けられているのだと実感できた。

 

p.105

複雑性というのは、いかに多くを捨てたかによって生まれるのだから。

そうした「外情報」の欠落に、人間は敏感だ。だから、プロセスを経ずに意図してつくられたものはすぐに見抜かれてしまう。その違いを聞き分けるのは、人間が基本的に持っている「あ、これ、面白い!」という感覚だ。これは何も音楽に限らない。

予想していなかったことに出会うと、誰しもわくわくして脳が活性化するものだ。好奇心をそそり、想像力をかき立てる意外性と複雑性が、人間には不可欠なのではないか。

 

p.115

練習を通じて体に覚えさせるとき、人間は頭も使っている。打楽器の一番のよさは、誰でも叩けば音が出るとっつきやすさだが、その次に必要になってくる、この「脳と体の橋渡し」がさらに別の快感を生む。これは、意識と無意識の橋渡しとも言い換えられる。こうした経験を重ねることで、人間は無意識が無意識であることを理解していく。

 

p.135

かつては自然のなかに人間がいて、純粋な人対人というシチュエーションにはなり得なかったのではないか。人と人の間には、木があったり、空気が流れたり、いい匂いがしたりと、さまざまなものがあった。都市で暮らしていると、人と人の間にはビルや店や商品ーーつまり人間のつくったモノしかない。現代社会で人と人との関係がぎすぎすしてしまうのは、そのせいだろうと思っている。だから、自分と人との間にはつねに自然があると想像するようにしている。所詮、都市も人間が脳でつくったものに過ぎないのだ。同じ脳を、空気を感じたり、香りを想像したりするのにも使えばいいではないか。 

 

p.207

そんなふうに、忘れることが喜びをもたらすことがある。僕の経験から言うと、自分がやってきたことや、それまでの自分のスタイルを忘れると、自由になれる。いろいろな知識や経験を一度リセットし、意図的に手放す必要があるのだが、実はこれがなかなか難しい。僕の場合、音楽の上では忘れることができるのだが、それ以外のことーーたとえば、コンピュータを捨てることなどなかなかできない性分だ。

 

p.273

ただし、記憶といっても必ずしも過去のことではない。あくまで「思い出す」という感覚に近いというだけで、過去はあまり関係ないのだ。僕の音楽は、昔から「ノスタルジック」と言われることが多かったが、それだけで片づけられることには抵抗がある。過去だけでなく、未来だって記憶の一つのように感じているから。