母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『雪国』川端康成

傑作でした。

やったね、今、読めて。

 

雪国を真夏に手に取る時点で、風流もねぇな、なんて思ったけど、読んでみれば意外にも春夏秋冬辿る物語なのね。

幾年も季節を超えて、そして最後の冬へ。

雪と炎と天の河へ。

 

〜〜〜

 

冒頭の一文は、大学の翻訳の授業でよく取り上げられていた。

英文にすると、トンネルが後にきちゃうから、長いトンネルを抜けた感が出ないって。

だから文章がもう映像的なんだろうなって思ってたけど、全編通して、想像よりずっと映画的で愉快だった。

 

地の文、風景描写は、

いちいち感情を持ったカメラマンが映している感じ。

私たちを取り巻く命を、人も山も草も虫も、やけっぱちなぐらい描き連ねていって、

乾いた主人公の心とは、裏腹に、

命の湿度が高い景色。

 

だからこそね、

だからこそ最後の死が、

美しく、厳か。

 

炎の轟音が鳴り響き、

天上の星々と過ぎ去った年月は、

ぶんぶんギュルギュル音を立てて自分の周りを急回転してる。

息切れてうるさい心臓と人々の声。

その中での、

完璧に静寂な死。

 

〜〜〜

 

歳をとるにつれて、

本の読み方が本当に変わったな、って実感する。

日々。

昔より、地の文をゆっくり丁寧に読むようになった。

読書の速度は落ちているけど、

今だからこそ、余分なく読めたんだろうなと思う。

もっともっと上手くなっていきたいよね。

幼い頃みたいに、鋭い読書はできなくても。

上手に、柔らかに、ゆっくりと、確かめるような読書。

僕らを取り巻く世界を見つめる目を養う読書。

 

本に限らず、音楽だって、

ほら今なら、少しだけでも上手に聞ける。

 

ベースラインの波に乗って、

奥で手前で跳ねるエレキやピアノにときめいて、

ストリングスに心撫でられ、

ドラムスに手をぐいぐい引っ張られながら、

でもぎゅっと握ってくれているから、

ほら堂々と歩いていけるではないか。

 

その感じに近いような。近くないような。

 

さぁ、今日も歳をとろうか、なんて言いながら。

 

〜〜〜

 

p.13

そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

 

p.30

しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遙かだった。

 

p.44

彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのであろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。

しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きとした血色だった。

 

p.120

「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされたように、彼女も島村も身を竦めた。

貨物列車が轟然と真近を通ったのだ。

「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

「佐一郎う、佐一郎う」と、葉子が呼んだ。

雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。

貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃って実に静かであった。

思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。

 

p.150

「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」

島村は言葉も出なかった。

「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、

「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやなあ気がした」

島村はうなずいた。

「あら。それを私今まで黙ってたの。分る?女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」

「いいよ」

「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

 

p.171

天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。

しかし、細く高い鼻の形も明らかでないし、小さい唇の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの影もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いがすることが不思議だった。

見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思われる。

大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しいんと冷える寂しさでありながら、なにかなめまかしい驚きでもあった。

 

p.177

その痙攣よりも先きに、島村は葉子の顔と赤い矢絣の着物を見ていた。葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上まで裾がまくれていた。地上にぶっつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死は感じなかったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものは感じた。

葉子を落した二階桟敷から骨組の木が、二、三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。

幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。