母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『天才の世界』湯川秀樹

最後の方に世阿弥の「離見の見」が出てきて少し興奮する。いくつかの点が、線になった快感。

それにしても、「あとがきにかえて」がスリリングで笑う。湯川先生を分析しようとしだす市川氏。

 

自己顕示と自己矛盾。昇華と客観的価値。

このあたりを絡めながら、でも、僕は天才たちを歪な変異種とは思わない、という姿勢。

最近は自分が、このインクルーシブな物の見方にひどく惹かれているということが判る。

だから、湯川秀樹が好きになったし、それを語るとき、僕は僕自身を語っている。

それは憧憬か、それとも。

 

そういった人たちみんなと友達になれたらな。

生きている人も亡くなっちゃた人も。

色々話したいな、それで、話し過ぎちゃったなぁって少しだけはにかみたいな。

 

p.4

他の大多数の人たちの場合には、いろいろな理由から、創造性が潜在状態のままで終ったり、またそれが現実化されても、それが大きな客観的価値とうまく結びつかなかった。私たちはそう考えるのである。それは天才を絶対化しないことを意味する。それは同時に天才のパターンの多様性を重視することでもある。

 

p.35

彼は自分の興味を、宗教だけに制限しようと思ってもできない。というところに彼のひじょうに万能的ない天才の特色がある。密教こそはと思うけれども、そこでとどまらんで、ほかのものもワッと取り入れる。〜どの段階の思想も捨てずに、最後に全部、自分の説のなかに取り入れる。これはこれなりに意味があるというふうに取り入れる。これは視覚的、つまりヴィジュアルな直観的な型であるということで、みなを同時的に全部生かす考え方です。

 

p.54

彼はひじょうにヴァイタリティをもっているから、やはりそれをサブリメーションしなければならない。欲望を昇華、向上させなければならない。宗教的修行、それに学問的な活動、芸術的な活動、ありとあらゆることをやる。土木技師的なことまでやるというのは、彼はエネルギーに満ち満ちているから、それらのすべてを意欲的にやらずにはおれない。

 

p.59

彼がふつうならば身がもたんというほどのごつい肉体的・精神的エネルギーをもちながら、多少俗なことにかかわったが、全体としてみごとな生涯を送ることができたというのは、本来的にはペシミズムが一生ずっとつきまとっておったからだと思う。

 

p.118

お父さんも何処かへ行ってしまったり、いろんなことがあるわけでしょう。お父さんは、さきほどの「庭に小蟻とあそべり」という式のね。そういうなかにあって社会をみると、そこは時代閉塞の状況、内外をみる目が一致してくるわけや。人間というのは、そういうふうになってくるまのなんじゃないでしょうかね。

 

p.200

そういうことがら自身はひどい話で、そういう農奴を人間扱いしておらぬ。ことに死んだものの売り買いをする、とんでもないことをやっているんだけれども、しかし、それをやっている人間は退廃しているかもしれんけれども、彼らもやはり人間性をもっているのやな。だから、その描写が生き生きとしている。たしかに、ひどいといえばひどいですよ。ですけれども、やはりそれぞれの人物がまた生きた人間やね。そこに救いがあるのやと思う。

ーーーなるほど、その立場から眺めてみますと、えげつなさはあっても、やはりそれぞれの人物が、また人間として生きているわけですね。

だから、嘘をついたり、二重人格みたいになっているけれども、二重人格なら、二重人格としての人間をやっぱり描いている。彼がほんとうに思っていることは、わたしは見方が甘いかもしれんけれども、単に一方的になにかを否定しているのではなくて、そこにもなにか人間に対するところの、悪いことばを使えば、憐みだけれども、なにかひじょうに深いヒューマニズムが底にあって、しかし、そういう格好ではあらわれず、リアリズムとしてしか出てこないわけや。

 

p.250

しかし、それは彼の内部で形が変わっている。いちばん生な感情、生の情緒、心の奥底にある生の気持ちは押えられて、それをだれがみても美しいというものにする。そのときにひじょうに葛藤があるわけですね。ふつうの人からみたら異常心理的なものと、それからふつうの芸術作品として立派なものをつくるという覚めた気持ちとが、矛盾葛藤して傑作が生まれてくる。それを抜きにしては歌の完成はない。

ですから、そういう深層心理的な、自分ではわからんような内面葛藤がうまくサブリメーションされて、そこに大芸術品が生まれるのかもしれん。あるいはまたニュートンの『プリンキピア』のようなものが生まれてくる。

 

p.273

やはり相当無理に、つまりふつうの限度より以上に頭脳を酷使するといいますか、なにか無理をするということがやはり必要なんじゃないかと思いますね。人によってあらわれ方が違いますけれども、ふつうの程度の集中では平凡なものしかあらわれてこない。それを突ききって、ふつうの意味での限界以上に努力を集中・持続しなければならぬ。

 

p.274

だから、それはひと言であらわしますと、自分をもはや意識的にコントロールできないような状況にまでいかんとあかんということだと思いますね。ある人が自分を一生みごとにコントロールし続けたら、それはそれなりに立派ですけれども、それだけでは常人以上の仕事はできない。一生のどこかで自分をコントロールできんような状況に何度かなるわけです。そういうことではないでしょうかね。

 

p.319

精神的ヴァイタリティが強いということは、それを自分がコントロールすることがむつかしいということや。コントロールする力が必要なんですよ。コントロールをぜんぜん失ったらどないもならぬ。しかし、コントロールできんようなヴァイタルな精神の活動を、ある程度コントロールする。そのコントロールの側を意識的にこういうものだということを、はっきりつかんでいたのがデカルトです。〜そういう面では、大天才というのはみずからの矛盾葛藤のなかの、自己発展の衝動がものを生み出しているということがいえますね。

 

p.329

どの人についても、いまわたしのいうたことは多少ともあたっているわけで、ひと言でいいますと、ある人間、それはやはり、かつて生きておった人間であって、しかもやはりひじょうな矛盾に自分自身悩んでおった。その悩み方がひじょうに深いわけですね。それだけにふつうの人以上に深刻な悩みをもって、人生を歩いてきたんですね。これを簡単に病理的とかいうことで、かたづけてしまってはいかんと思うんです。そういう人たちは、ほかの人たちにとって、ある意味で人間の代表みたいな、典型的なものですわね。そういうふうにとらえるべきであって、わたしも市川さんも以前から、クリエイティヴィティ、創造性ということを考えてきたけれども、それは少数の天才だけの話じゃなくて、たまたま、天才の場合にはそれがひじょうにはっきりあらわれている、というに過ぎなかった。

 

p.349

そういたしますと、これはおもしろいことになります。つまり、他人を批評し、他人をほめ、あるいは他人に感動しているその人物というものは、じつのところは、ほとんど偽りなしに、自己を無意識に吐露しているという結果になるとわたしは思うんです。もとより、このことは、すでに利害関係のなくなっている過去の人物について語っている場合なんでありますが。なぜならば、利害がほとんど消えうせた過去の他人のことを論じているんですからね。今日、現在生きている自己を論じているのではない。

さて、他人に対する評価、好ききらいというのは、無意識の間に自己の立場と、自己の価値観、あるいは評価のものさしを通じて他人を位置づけていることなんでしょう。でありますから、そこには、論じられている人物以上に、論じている人物の自己があらわに出ているとみなきゃならぬと思うんです。