母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『「いき」の構造』九鬼周造

『「いき」の構造』

p.15

陰鬱な気候風土や戦乱の下に悩んだ民族が明るい幸ある世界に憧れる意識である。レモンの花咲く国に憧れるのは単にミニョンの思郷の情のみではない。ドイツ国民全体の明るい南に対する悩ましい憧憬である。「夢もなお及ばない遠い未来のかなた、彫刻家たちのかつて夢みたよりも更に熱い南のかなた、神々が踊りながら一切の衣装を恥ずる彼地へ」の憧憬、ニイチェのいわゆる flügelbrausende Sehnen はドイツ国民の斉しく懐くものである。


p.18

文化存在の理解の要諦は、事実としての具体性を害うことなくありのままの生ける形態において把握することである。

 

p.64

およそ意識現象としての「いき」は、異性に対する二元的措定としての媚態が、理想主義的非現実性によって完成されたものであった。その客観的表現である自然形式の要点は、いちげんてきへいこうを軽妙に打破して二元性を暗示するという形を採るものとして闡明された。

 

p.98

意味体験を概念的自覚に導くところに知的存在者の全意義が懸っている。実際的価値の有無多少は何らの問題でもない。そうして、意味体験と概念的認識の間に不可通約的な不尽性の存することを明らかに意識しつつ、しかもなお論理的言表の現勢化を「課題」として「無窮」に追跡するところに、まさに学の意義は存するのである。

 

p.100

「ヘルメスのために私が建てた小さい神殿、直ぐそこの、あの神殿が私にとって何であるかを知ってはいまい。路ゆく者は優美な御堂を見るだけだーーーわずかのものだ、四つの柱、きわめて単純な様式ーーーーだが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込めた。おお、甘い変身(メタモルフォーズ)よ。誰も知る人はないが、このきゃしゃな神殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女の数学的形像だ。この神殿は彼女独自のつりあいを忠実に現わしているのだ」

 

p.107

我々の精神的文化を忘却のうちに葬り去らないことによるほかはない。我々の理想主義的非現実的文化に対して熱烈なるエロスをもち続けるよりほかはない。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬を懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解を得たのである。

 

『風流に関する一考察』