母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『時間と自己』木村敏

時間は、僕の人生の一つの主題でもあって、なるほど科学的に「時間」を捉えようとしないところがなかなか面白い。

断固として、そこを迂回する感じ。

精神病理と絡むことによって強引だが独自的、かつ納得感が伴う。

その根底には僕らはほとんど変わらないはずさ、っていうDiversity & Inclusionの意気地があって好き。

 

p.6

ものはすべて客観であり、客観はすべてものである。

 

p.9

元来不安定な自己は、世界の側に安定の場を見出そうとする。ところがことの世界は自己の支えになるどころか、自己の不安定さをますますあばき出すこもしかしない。だから私の自己は、ことの現れに出会うやいなや、たちまちそこから距離をとり、それを見ることによってものに変えてしまおうとする。

 

p.18

ことがこととして成立するためには、私が主観としてそこに立ち会っているということが必要である。

 

p.34

物理学が時間としてみなしているものは、本性上、前後対照的であって可逆的な連続量のようなものだと考えざるをえない。そこで、物理学の時間に前後非対称な不可逆性が、いいかえれば過去と未来との非互換性が導入されるのは、またそれによってエントロピー増大の法則が成立するようになるのは、けっして計測量そのものの一次的な性質によるものではなく、観測という行為が二次的に加えた操作によるものなのである。二回の観測が前の観測と後の観測という順序をもっているという、ただその理由だけのために、そこで観測される「時間」にも不可逆な前後の方向が与えられてしまう。

 

p.52

このようないまは、なにかあるものではない。

それはむしろ、そのつどの私自身のことである。なにをするにも時間を必要とし、時間を見込んでいるわれわれの現存在自身が、「いま」ということばで自分自身を言い表しているのである。いまが時間の一区切りではなくて時間それ自身だとするならば、時間とは要するにわれわれ自身、わたし自身のことでなくてはならない。

 

p.74

遠さへの親和性は、患者にとっては苦痛と絶望の場にすぎない現在からの離脱の試みと考えられる場合もあるけれども、本質的にはむしろ、彼らの現在そのものが、すでに未知性という最大限の遠さによって占められているからなのだろう。

 

p.77

患者が現在の自己を拒否して未来の可能性に憧れるのは、自己が自己自身を認知できていないことの端的な現れである。われわれが現在の自明性の中に自然に逗留することができ、周囲の動静をあるがままに受けとることができるのは、自己が自己自身を全面的に認知しうる場合だけである。現在の自己の認知は、自己を現在の自己たらしめているこれまでの歴史の認知にも繋っている。

 

p.96

自己の述語作用が反復的に自己自身のもとに立ち戻って自己を認知し続けてきたという自己の確実な事実性が、主語的自己の歴史的な同一性として保持され、そのつどの述語的自己生成の背後にある反自己的な死の原理が、この同一性の歴史によって、いわば、あらかじめ保護膜をかぶせられて遮光されている場合に限られるのである。

この保護膜の材質や強度は、われわれのひとりひとりにおいて千差万別であるだろう。他者の信頼関係のうちにこの保護膜を見出している人もあれば、他者からひたすら愛されることのうちにそれを求めている人もあるだろうし、誠実さや勤勉さによって他者から評価されることを通じてそれを確保している人もあるだろう。保護膜があまりに鞏固であるために、未来がほとんど確定的な既知性のもとにしか到来せず、従前の路線の予定通りの延長である以上の新しい意味をほとんど持ちえないような人もいるだろうし、一方では保護膜が脆弱すぎて、ことあるこどに最初から自己を発見しなおさなければ自己の自己性を保ちえない人もいるだろう。

 

p.107

レマネンツとは「自己自身におくれをとること」を意味し、その本質は「負いめを負うこと」にある。メランコリー親和型の人の几帳面な秩序愛は、自己自身への過大な要求水準によって保持されている。このような秩序保持の仕方の背後には、いつも自己自身におくれをとらないように、負いめを負わないようにという、けなげな努力が隠されている。外部状況の思わぬ変化のためにこの努力が目標を失うようなことがあると、そこから、自己自身に決定的におくれをとり、負いめを負うという、とりかえしのつかない内面状況が出現することになり、これが鬱病の発病状況を構成する。

 

p.116

これらの多様な役割の遂行者として私が私自身の中心的な同一性を失わないでおこうとすれば、私は私自身に属しているどの役割同一性からもなんらかの距離をとり、いわば役割の外部に立つことができるのでなくてはならない。私が私自身であるという私の中心的な同一性は、私にそのつどの役割同一性から距離をとらせ、私に役割とのある種の非同一性を保証するような機能を果す。

 

p.134

というよりはむしろ、この第三の狂気は、人生の大半を理性的な日常性の中で過ごしているどんな健康人のもとにもときどき訪れる非理性の瞬間として、愛の恍惚、死との直面、自然との一体感、宗教や芸術の世界における超越性の体験、災害や旅における日常的秩序からの離脱、呪術的な感応などの形で出現しうるものであるし、精神医学の領域においては、分裂病躁鬱病非定型精神病など、ほとんどすべての精神病にみられる急性錯乱状況において、また癲癇の発作症状において、病気の種類にはかかわりなく広く出現しうるものである。

 

P.147

永遠が日常性と重なって意識されるとき、それはかならず、永遠の瞬間、永遠の現在という姿をとる。未来永劫とか無窮の過去とかいうことも表象はできるけれども、それは単なる観念にすぎないか、さよなければ現在の直接的体験としての永遠を二次的に未来や過去に投影したものであるかのいずれかである。永遠が永遠としての実感を伴ってわれわれに直接に現前するのは、いまのこの一瞬において以外ではありえない。

 

p.154

ここで死が躁病の単なる誘発因子としてではなく、躁病者の歓喜の気分そのものの中に内在する本質契機として取り出されているのは、重要な指摘である。鬱病者が死を遠ざけるために日常性の秩序に執着し、失われた秩序への喪として深い絶望に陥るとすらならば、躁病者は死を直下に生きることによって日常性の制縛を破り、無秩序の祝祭的な世界に舞い上る。しかし、鬱病者が遠ざけようとする死と、躁病者が直接に生きている死とは、同じ「死」ということばで語られながら、実は互いにまったく別個の意味をもつことに注意しなくてはならないだろう。一方は個別的な生に対立する原理、生の否定的原理としての死であるのに対して、他方はむしろ一切の個別的な生がそこから生まれ出て来る生の源泉としての大いなる死であろう。この大いなる死の側から見るときには、日常の個別的生命のごときものは、たかだか数十年間の持続を保証されている色褪せた幻影にすぎない。大いなる死とは、永遠の別名にほかならない。