母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均

川上未映子つながりから辿りまして、出会った本。

気付かぬうちに納得したような顔で他人が生み出した概念を捏ねくり回したくないタチなので、すごく共感できたりしたけど、こんな読み方は正しいのか。

本当にそうだっけ?って疑うことが、自分で考えることのスタートだと思うわけだけど、こういうこと浮かべている人はやっぱり皆いい具合にひねくれていて好きだな。なぜかそれでも眼光に純粋なものがチラチラしていると嬉しくなる。

 

「克服」は克服できない。忘れるしかない。

確信的でゾワリ。

 

でも、「初めから知らない」と「忘れて知らない」の間には大きな隔たりがあるって信じたい(ニヒリズムですとも)。

 

「忘れる」ってことは、

記憶の恣意的なストーリーからそっと抜いてあげることだと思えるようになってからは、

老いに対して優しい眼差しになれたりもして。

チェイン・オブ・メモリーズですかね。

KH世代でしたから。

 

Louis Coleの『Time』というアルバムを聴きながら読んでました。

シンセサイザーのリズミックなダンスサウンドの間にどことなくクリスマス。暖かいアルバムだなぁ。

 

お互いに、お互いのやり方で生きていきましょう。じゃあその日まで、然様なら、ルサンチマン

 

それにしても最後の対談のスリリングなこと。

 

p.23

ところで、さっき言ったようなニーチェに対する二つの批判が正しいとすれば、貴族的価値評価の中にも僧侶的価値評価へと変造が可能な要素が、すでに含まれていたことになります。

 

p.37

まず注意すべき点は、自己罪責化は自己特権化と表裏の関係にあるという点です。

 

p.39

存在の無根拠性を直視できずに、いろいろな物語を立ててゴマ化すことーーこれがニヒリズムの本質です。この心性の特徴は、別の観点から見ると、偶然ということに耐えられずに、どんなことでもそうなるべくしてなった必然的な意味があると見なすことにあります。

 

p.42

話を戻せば、ルサンチマンというものは本当は決して「克服」できないものではないかと僕は思うのです。克服という観点を持つ限り、ルサンチマンは、まさに「ル」と言われいるとおり、どこまでもより隠微にそしてより深く自己を再生産し続けていきます。

 

p.74

苦悩を苦悩としてそのまま受け入れ肯定すること。スピノザはそんな物語は初めからないかのように振る舞った。ニーチェはそのために苦闘した。忘恩を要求する精神それ自体を忘却するために苦闘したように。だから、その苦闘は定義上、苦悩ではなく愉悦でなければならなかった。ダンディズムとは、多分、そのことである。それは「試練」を拒否する精神である。〜〜〜

脱出するために「苦闘」することが脱出を不可能にする蟻地獄。

 

p.115

問題は、内面化されたハンスト的闘争原理にある。今日もなお、その不敗の復讐システムなしには生きていけない人々は存在するだろう。だがそれとともに、「愛」その他の道徳的意識のもと、最後の手段であったはずのこの原理を利用して、さらなる余剰の価値を手に入れようとする人々もまた少なくないのである。つまり怨恨なき復讐。ニーチェが恥知らずと呼びたかったのは、多分、そのような事態なのである。