母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『瞬間を生きる哲学〈今ここ〉に佇む技法』古東哲明

瞬間を感じることで時間を知って、

時間がきっかり主観だって身に染みた後に、

再び瞬間を感じてみる。

みたいな。

 

最後らへん、あまりに雄弁に語る女の子に少し笑ってしまったけれど。

 

歳を取れば取るほど、

時間が嘘っぽく思えてくるよね。

敢えて目を細めてぼやぼや見ている感じに近くて、

ちょっとでもピント合わせたら、

時間感覚の化けの皮が剥がれそうでひやひやしてる。

まだ20代半ばだけど。

この先はどうよ。

 

なんて、また瞬間を生きれてないし。

 

コンマ秒と何億年の狭間の孤独に僕は思わずくしゃみをした。

 

〜〜〜

 

p.14

今ここの瞬間を、永遠と言い切れるほどに尊い・荘厳だと、痛感するだけのことです。この世この生の大肯定。死の事実を圧倒するほどの生の凄みの露出。そういってもよいかもしれません。

瞬間を生きるとは、じつはそんな「テオファニー的時の実現」と、ほとんど重なります。

 

p.34

いつの時代もそうだったかもしれない。「明日を思いわずらうなかれ」。そんな教えが二千年前にもあったくらいだから、先行き不安は人類の友達。社会生活を営むとは、そもそもがそんなもの。そう言い放つことも可能である。

だがそうだとして、この時代は、明日を思いわずらう度合いが極端にすぎる、というより「この日」を亡失する瞬間抹消の度合いが激しすぎる。

 

p.37

資本主義体制というと、私欲や利潤をあくなく追求する、功利性と営利性を最終目的とする獰猛な経済システムを、つい連想しがちだが、じつはそれはとてもストイックなしくみだ。なにごとかの価値(富)を味わえるのは、いまこの現在の瞬間においてより他にはないのに、その享受を我慢し、先送り。目前の財富にこだわっていては、未来に約束された〈もっと大きな富〉を逃すから。そう想わせ、人を社会を、前のめりに動かしてしまうのが、資本主義経済の骨格をなすこの前望構造である。

 

p.64

ここには、〈今ここ〉ではない、未来時の〈いつかどこか〉に生活の力点をおいて生きるべしという〈貯蓄精神=瞬間抹消思想〉が説かれている。この〈貯蓄精神=瞬間抹消思想〉こそ、資本主義体制の根幹だ。それは世俗化した禁欲精神。

 

P.67

今この瞬間に身投げするかのように、しっかりと沈む。すると、いやでも勝手に浮かんでくる。そう自然体はできている。バタフライは沈みにあり。

〜〜〜

意志的主体の願望(未来寺依存性)など放棄せよということである。

 

p.75

とすれば、現実の脱却(隠蔽)こそ、現実の生起(現出)の積極的な前提をなすというべきだろう。つまり、見失われることを代償にしてはじめて、現実は生き生きと起動できる。あるいは、対象像となることを拒絶され、けっして顕現的な視界に登場できない〈現出の失策〉こそが唯一、現実が〈現出する〉仕方だということである。

 

p.135

すでにきいたり、かつて呼吸したりした、ある音、ある匂いが、現在と過去との同時のなかで、ふたたびきかれ、ふたたび呼吸されると、たちまち、事物の不変なエッセンス、ふだんはかくされているエッセンスが、おのずから放出され、ぼくたちの真の自己がめざめ、生気をおびてくるのだ。時間の秩序から解放されたある瞬間が、時間の秩序から解放された人間をぼくたちのなかに再創造して、その瞬間を感じるようにしたのだ。

 

p.158

夏草に汽罐車の車輪来て止まる

山口誓子

「来て止まる」=忽然

 

p.171

永遠に出逢う体験。芸術とはそういう時間体験のことである。

 

p.182

直線時間を表象するような対象化的思考は、瞬間の永遠性どころか、瞬間自体をはじめから無視していることを告げている。「瞬間は〔直線〕時間のアトムではない」のに、だから瞬間は独自の存在様式と別の起源とをもっているのに、瞬間や現在という時をふつうに思索しても、だめだということである。

 

p.187

リニア時間論からすれば儚くみえるどの瞬間もが、存在論的には無条件にすべて、「永遠の時」を刻んでいることになる。「ほんとうに刹那的なものは、儚い瞬間ではなく、永遠性を打ち明けている」と、ハイデガーが語るのもそのためである。

 

p.251

もう待っているという意識も消え、周囲のざわめきも、青空も人間もなにもかもが、今日この時この場の瞬間のなかに、すっぽり垂直にはまり込んでいくかのようなのだ。

もはや過去もなければ、未来もない感じ。ただ現在だけがあり、その刻一刻の時の移りゆきの中で、灼熱の太陽が降りそそぎ、乾いた熱風が砂をまきあげ吹きすぎる。ぬけるような青空に鳥がゆったり舞い、熱気に遠くゆらめくレールぞいに、ラクダや白牛や孔雀がのんびり歩いていく。そして、大地の呼吸にもにた安らぎが、あたり一面にひろがっていく。

そんな静けさの瞬間の中に腰をおろす。何時間も、ときには一昼夜も。

 

p.252

今この瞬間が生起してくる、その刹那の存在の事実の凄さ(存在神秘)をとくと味わってみる。こうして生まれ生きて死ぬ、存在の事実の神秘(理屈では在りえないことが実現していること)に、暫し撃たれてみる。