母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『動きすぎてはいけない ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』千葉雅也

p.16

そして、六十年代後半にかけて、論況はさらに新しくなる。ものごとの構造それ自体に潜む、構造を不安定化させる部分ーー構造それ自体の無意識の綻びーーに注目し、そこを動因とした構造の変化を考えようとぬる人々が目立ってくるのである。

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そしてドゥルーズは、事物、私たちの心、脳、身体が、別の構造に「生成変化」してやまないことを、存在論のレベルで「肯定」していくのだった。

 

p.22

私たちは、ものごとを「全体」として隈なく秩序づけたいーーすべての要素を互いに接続したいーーという「妄想」を抱くことがある。

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そこから逃れるのが、分裂症的になることなのだ。

 

p.35

こうした〈コミュニケーション必然性〉の存在論的な前提化は、実のところ、特殊な全体性(国家や会社など)を凌駕する、究極の「潜在的virtuel」な全体性の措定ではないだろうか。そうした全体性への「内在immanence」は、たとえ喜ばしい事であるにしても、ある種の「ファシズム」に似ないだろうか?

 

p.41

〈複数的な外部性における個体化〉を、事物それ自体の経験において問うことになる。個体化、それは、諸部分の離散性(バラバラであること)を無みせずに、隙間だらけの身体をかろうじてまとめることである。

 

非意味的切断→再接続 = 個体化(=「器官なき身体」をつくること)

 

p.45

同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値するすぐれてクリティカルな体験の境位であることは、いまさら言うまでもない。

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すぐれて非意味的切断と呼ばれるべきは、「真に知と呼ぶに値する」訣別ではなく、むしろ中毒や愚かさ、失認や疲労、そして障害といった「有限性finitude」のために、あちこちを乱走している切断である。特異な有限性のために偶発する非意味的切断は、「すぐれてクリティカルな体験」に劣らず、何らかの「本能」や「共同幻想」とされるものを、ズタズタに破砕する。

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ポジティブに言って、私たちは、偶然的な情報の有限化を、意志的な選択(の硬直化)と管理社会の双方から私たちを逃走させてくれる原理として「善用」するしかない。


p.49

接続的ドゥルーズベルクソン主義=存在全体の連続性における差異化のプロセスに内在させる立場。

切断的ドゥルーズ・ヒューム主義=同一性のない所与の連合によってなされる主体化。

 

P.59

Aをいったん捉えたなら、時間の進行のなかで、続けてまたそれをAとして再現前化(表象)し、維持する。この場合、どのような変化が起ころうとも、それはA=A「この一杯のロックのバーボン」の変化であり、ゆえに変化ないし差異の概念は、良識と常識によって支えられたA=Aという同一性に従属している。ところがドゥルーズ哲学は、差異を、同一性の再現前化(表象)に従属させないことを狙った。

 

p.67

もっと動けばもっと良くなると、ひとはしばしば思いがちである。ひとは動きすぎになり、多くのことに関係しすぎて身動きがとれなくなる。創造的になるには、「すぎない」程に動くのでなければならない。動きすぎの手前に留まること。そのためには、自分が他者から部分的に切り離されてしまうにまかせるのである。自分の有限性のゆえに、様々に偶々のタイミングで。

 

p.81

ドゥルーズにおける「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはいけない」という箴言を、あたかも『荘子』の一部であるかのように扱ってみよう。すなわち「動きすぎる」とは、世界全体を「道」の糸によって無限に速く縫い合わせ、万物斉同にすることであり(接続過剰)、逆に「動きすぎない」生成変化とは、区別=切断された個々の自己充足ーーこれをセルフエンジョイメントに相当するーーのスイッチとしての物化であるとしたら、どうだろうか?


p.86

ドゥルーズにおいて実効的なのは〈区別のある匿名性〉であり、他方の〈万物斉同の匿名性〉は想定されるだけの理念にすぎないが、こちらを前景化しているように見える場面もある、と考えているのである。

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Nへの生成変化とは、名辞「N」の内容をくりかえし粉砕し、くりかえし仮に再規定することである。すなわち、Nの「分身double」、N'を増殖させることであり、それは、「N」に関する特定の解釈歴からズレることだ。