母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『見ることと見られること』佐藤忠男

p.4

こうして肉親や他人のまなざしというものは、いったん心に刻み込まれると、やはり神のイメージと同じように、その視線が物理的にはとどいていない場にまで及んで良心というものの核になるのだ。

 

p.10

たとえしばしば形式に流れ、偽善におちいりやすい行為であるにしても、人はたがいに祝福し合うことが必要なのである。極力それを本気でやるべきなのである。

 

p.12

どんな子どもにもどこかいいところがあるから、そこをほめて個性を伸ばしてやらなければならないと、よく言われる。そのとおりだと思うが、それが必要なのは、まずおとなのほうではあるまいか。子どもというものは、まだ精神的に親から分離独立していない存在なので、親を誇らしく思うことが自分自身を誇らしく思うことに直結するのである。

 

p.68

そうして差別者であることを止めたと思っていたわけであるが、これは同時につきあいを止めるということでもあり、無視するということにも通じる。じつは無視することが最大の差別であることは、現代の子どもの社会から生れてきた「シカト」という俗語が、もっとも効果的ないじめの手段としての無視を意味していることで明らかである。

 

p.99

相手のアラさがしにも限界があることには暗黙の了解がある。つまり、相手をほんとうには傷つけないのである。その範囲でたがいに相手をヲコの者にし合えるということは、たがいに相手を自分のための道化師にし合えるということであり、その範囲で相互に相手を利用し合えるということである。つまりは、そこに小さな共同体が形成されるのである。存在しない共同体を新たにつくりあげるためには、特別な才能がなくてもヲコにならねばならず、それには冗談やからかいによって相手をヲコにし合うのが簡便でもあったにちがいない。

 

p.121

あらゆる芸能は発達の過程で抽象化をめざす。そして洗練の極致に達したときにはどのような表現も、きわめて高度の抽象性をもつ。能や歌舞伎の一つの仕草がそれ自体でいくつかの概念を表わすように、抽象化の行きつくところは言語のようなものである。