『身体の言い分』辿りで流れ着いた。
哲学本もよく齧るのだけれど(毎回齧ってる。あんまり沢山食べて消化不良で、全部下しても仕方ない)、
これ、分かりやすかった。
どこか生活に応用したいなんていう、哲学のゴールとは程遠い欲まで湧いてきたほど。
現代ピーポー若者としては、
脱構造主義的な文化に飼いならされてたりして、
意識すればあらゆるものがそうやって見えてしまうくらい危険よね、この眼鏡は。
相変わらず、この「寝ながら」っていうツボが好き。
この塩梅です。
真っ直ぐ真面目には受け止めませんよ、って。
そのくせ誰よりも気にしてるんでしょ、って。
〜〜〜
p.11
そして、知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問いの下にアンダーラインを引くこと」なのです。
P.19
構造主義的知見を利用することなしには、構造主義的知見を批判的に省察することができないという出口のない「無限ループ」の中に私たちは封殺されています。この「ループの中に閉じ込められている」というのが「あるイデオロギーが支配的な時代を生きている」ということです。
p.25
私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。
p.56
ニーチェは何かを激しく嫌うあまり、そこから離れたいと切望する情動を「距離のパトス」と呼びました。そして、その嫌悪感こそが「自己超克の熱情」を供与するというのです。ですから、「超人」へ向かう思考を賦活するためには、醜悪な「畜群」がそこに居合わせて、嫌悪感をかき立ててくれることが欠かせません。おのれの「高さ」を自覚できるためには、つねに参照対象としての「低い」ものに側にいてもらうことが必要です。
p.75
ところが、このどうにも足元のおぼつかない「私のアイデンティティ」や「自分の心の中におる思い」を、西洋の世界は、久しく「自我」とか「コギト」とか「意識」とか名づけて、それを世界経験の中枢に据えてきました。すべては「私」という主体を中心に回っており、経験とは「私」が外部に出かけて、いろいろなデータを取り集めることであり、表現とは「私」が自分の内部に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出することである、と。
p.80
ある制度が「生成した瞬間の現場」、つまり歴史的な価値判断がまじり込んできて、それを汚す前の「なまの状態」のことを、のちにロラン・バルトは「零度」と術語化しました。構造主義とは、ひとことで言えば、さまざまな人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)における「零度の探求」であると言うこともできるでしょう。
〜〜〜
歴史は過去から現在目指してまっすぐに流れており、世界の中心は「ここ」であり、世界を生き、経験し、解釈し、その意味を決定する最終的な審級は他ならぬ「私」である、というふうに私たちは考えています。
〜〜〜
「歴史の直線的推移」というのは幻想です。
p.92
しかし、フーコーによれば、身体もまた「意味によって編まれた」という点で、一個の社会制度に他なりません。
〜〜〜
ある身体運用をすることが、あるいはある身体部位を意識することが、社会的な記号として機能し、あるメッセージを発信する、ということがあるのです。
p.110
「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向性」のことなのです。
p.122
そのような意味において、私たちは「エクリチュールの囚人」です。バルトが言うとおり、「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由でなくなっている」のです。
p.128
言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。それが人間が言語を用いるときの宿命です。