母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『手の倫理』伊藤亜紗

p.30

興味深いのは、こうして石や木、物の性質を知っていくことが、フレーベルにおいては、「自分自身を知ること」へと折り返されていく点です。ものの意外な性質が引き出されることと、自分の中の意外な性質が引き出されることは、フレーベルにとってセットになった一つの出来事なのです。

 

p.40

道徳は、定まった答えや価値をなぞること、つまり「価値を生きること」が中心になるのに対し、倫理は「価値について考え抜くこと」をも含むのです。

 

p.41

考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げるものとしての倫理。そのための方法としてウエストンがあげるのは、たとえば「ことばを慎重に選ぶ」もいうことです。

 

p.48

Be your whole self.

つまりそのチラシがうたっているのは、人と人のあいだにある多様性ではなくて、一人の人の中にある多様性なのでした。あるいはむしろ「無限性」と言ったほうがよいかもしれない。

『アンビエント・ドライヴァー』細野晴臣

もうさ、声が聞こえんのよ、細野さんの。

低い、良い意味でスキだらけのじっとりした喋り方が。

 

そして、やっぱり彼のパーソナリティというか、言葉そのものに飾り付けがなくて、かっこよく見せようとか深いこと言おうとか吃驚させてやろうとか、そういうのはない。

ただ身の丈にあった言葉や考え方をお伝えしている感じ。

 

ネイティブアメリカンの思想が割と出てくるけど、

なんだか馴染みがなくて、妙に面白い。禅味もあったり。

傾倒してたんだなぁ、ハマってたんだなぁってバレバレな感じも、人間味たっぷりの「スキ」があって良いよね。

 

〜〜〜

 

アンビエントに接続されていく感覚。

一周回って納得いく感覚。

思考も身体も変わる変わる変わる。

 

〜〜〜

 

p.21

跳ねれば能天気になり、跳ねていなければクソ真面目になる。その中間をとるという微妙なテンションのなかで、だんだんハイになっていく強い快感のあるビートであった。

 

p.27

ネイティヴ・アメリカンの教えのなかには、モノとモノとの間を見極めなければならないというのがある。密教では曼荼羅を見るが、それは曼荼羅そのものを見るのではなく、3Dの絵を見るときのようなモノの見え方を教えているのだという。つまり目の使い方、ひいては心の使い方を勉強しろということだろう。

もちろん、モノをないがしろにすれば単なる精神主義に陥ってしまう。〜 モノを失くすと、モノとモノの間が見えてくる。

 

p.33

同意があったと思う根底に精霊信仰があれぼ、どこか大地に根ざした安心感があるものだ。何かが見えたり、変な声が聞こえたりするのは困るけれど、クッションを通してやわらかくメッセージを受け取るような日々はいい。

 

p.91

変わりたくないと思うのが人間の基本だが、それはドン・ファンのいう「集合点の移動」に抵抗しているのだと思う。集合点ーーつまり世界の見方のアルゴリズムを移動させたくない。だが、それがちょっとしたきっかけで変わっていってしまうのが、宇宙の法則なのだろう。たとえば、眉毛をちょっと細くするだけで、意識が変わってしまうように。

安定か不安定か、幸福か不幸か。僕たちは現代の神話ともいうべき妄想を叩き込まれ、自分がそのシーソーのどちら側にいるのかということばかり考えがちだ。集合点を移動させることは、そのシーソーから降りることにらほかならない。


p.94

このときの瞑想はとても深いものだった。未来の自分のイメージが出てきて、それが現在の自分を俯瞰している。そして、未来の自分のほうが自分の本体だと感じられ、僕は瞑想している現在の自分の姿を見て哀れに思った。つまり客観性を持てたというわけだ。瞑想が終わって元に戻ったとき、僕には本体の自分がいるのだということがわかっていた。また、その存在に助けられているのだと実感できた。

 

p.105

複雑性というのは、いかに多くを捨てたかによって生まれるのだから。

そうした「外情報」の欠落に、人間は敏感だ。だから、プロセスを経ずに意図してつくられたものはすぐに見抜かれてしまう。その違いを聞き分けるのは、人間が基本的に持っている「あ、これ、面白い!」という感覚だ。これは何も音楽に限らない。

予想していなかったことに出会うと、誰しもわくわくして脳が活性化するものだ。好奇心をそそり、想像力をかき立てる意外性と複雑性が、人間には不可欠なのではないか。

 

p.115

練習を通じて体に覚えさせるとき、人間は頭も使っている。打楽器の一番のよさは、誰でも叩けば音が出るとっつきやすさだが、その次に必要になってくる、この「脳と体の橋渡し」がさらに別の快感を生む。これは、意識と無意識の橋渡しとも言い換えられる。こうした経験を重ねることで、人間は無意識が無意識であることを理解していく。

 

p.135

かつては自然のなかに人間がいて、純粋な人対人というシチュエーションにはなり得なかったのではないか。人と人の間には、木があったり、空気が流れたり、いい匂いがしたりと、さまざまなものがあった。都市で暮らしていると、人と人の間にはビルや店や商品ーーつまり人間のつくったモノしかない。現代社会で人と人との関係がぎすぎすしてしまうのは、そのせいだろうと思っている。だから、自分と人との間にはつねに自然があると想像するようにしている。所詮、都市も人間が脳でつくったものに過ぎないのだ。同じ脳を、空気を感じたり、香りを想像したりするのにも使えばいいではないか。 

 

p.207

そんなふうに、忘れることが喜びをもたらすことがある。僕の経験から言うと、自分がやってきたことや、それまでの自分のスタイルを忘れると、自由になれる。いろいろな知識や経験を一度リセットし、意図的に手放す必要があるのだが、実はこれがなかなか難しい。僕の場合、音楽の上では忘れることができるのだが、それ以外のことーーたとえば、コンピュータを捨てることなどなかなかできない性分だ。

 

p.273

ただし、記憶といっても必ずしも過去のことではない。あくまで「思い出す」という感覚に近いというだけで、過去はあまり関係ないのだ。僕の音楽は、昔から「ノスタルジック」と言われることが多かったが、それだけで片づけられることには抵抗がある。過去だけでなく、未来だって記憶の一つのように感じているから。

『わたしのマトカ』片桐はいり

フレンドからお借りして読んだ。

自分では買わない本に出会うって久々だけどいいよね。

その時の記憶や環境も、読書体験に入る。

その子はこの前引っ越したから、もうしばらくは会えないかもな。

〜〜〜

彼女が持っている「あっけらかんさ」はやたらまぶしくて、全部が気の抜けたショートムービーみたいになって、僕らの人生もこんなんだったらよいって思って、でも本人からしたらバカ言えって思われそう。

 

ヘルシンキの地獄のクラブには行きたくないけど、

カオスの後の静謐さはが今の僕にはきっと必要。

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p.15

あまりに得体の知れないものに出会うと、喜びすら湧きあがる。狭く思えた地球が果てしなく広く感じられる。この世にはまだわたしが知らない味がある!そう思ったら、なにやら胸がときめいた。

 

p.50

映画や舞台の照明もそうだが、明かりを当てる角度によって、人や物の見え方はとんでもなく変わるものだ。女優さんが自分を最高に美しく見せるよう、角度を選んでマイライトを置くように。ヘルシンキの夕暮れの太陽の角度は、ホテルの裏庭の木々を、その影がさす白い壁を、赤や緑の椅子やソファを、それはそれは華やかに見せた。わたしの部屋は、そしてこの町は、白夜の夕暮れの明かりにもっとも美しくなじむような気がした。

 

p.150

便器はあんぐり口をあけて水を流しながら、そうやってどこにでもすぐ馴染んで、ひとりでも生ていけます、みたいな顔をしていると、そのうちほんとうに誰からも心配されなくなっちまうよ、とわたしに忠告をした。

『欲望会議 性とポリコレの哲学』

p.6

欲望とは、肯定することです。肯定的生、肯定的性。それはしかし、逆説的に思えるかもしれませんが、何らかの「否定性」としぶとく付き合い続けることを含意しているのです。一切の否定性を退けて、ただただポジティブに生きようとするのではなく、「何らかの意味で、否定性を肯定すること」が必要なのではないかというのが、三人に共通するスタンスなのです。 現代における主体性の大きな問題は、否定性の排除、否定なき肯定であり、そしてそれは、グローバル資本主義の本格化とおそらく関係しています。

 

p.29

ベルサーニは、我々は自己破壊的なオーガズムが怖いからセックスが嫌いなんだと言った。それは言い換えれば、オーガズムとはポストトゥルースだからでしょう。つまりオーガズムというのは本当とウソを超えることだから、結局、オーガズムが怖いというのは、本当とウソというバイナリー(二元性)が破壊されることが怖いんですよ。 本当とウソという二元性自体が破壊されることは、一番自分の存在が揺さぶられることです。それを恐れるから人はセックスを恐れるんじゃないですか。

 

p.98

でも僕ぐらいの年齢だって、よくわからない巻き込まれが確実にあった時代のことを知っているし、その時代が持っている興奮性を褒めたりすることもある。そうすると反動的だと言われるだろうけれど、巻き込まれにこそ宿る興奮性というのは、精神分析的に言えば、やはり確実にある。これは欲望の論理ですから。

 

p.105

少しつけ加えると、祝祭がそういう形で外に置かれていたのは近代までの構造で、いわゆるポストモダンの時代になると、日常が絶えざる祝祭の空間になってしまう。つまり、さまざまなエンターテインメントの消費が増えるから、常時、疑似祝祭になる。だからセックスレスになっていくと思うんです。 ファミコンが出始めた小学生の頃は、勉強や仕事もみんなゲームみたいにやれたら楽しいのになと夢想していました。そして実際、僕らの世代が社会の中核を担うようになると、ありとあらゆることがゲーム化されるようになっている。そうやって、日常全体がエンターテインメントの祝祭空間になったときに、いったい何を遊べばよいのかわからなくなったと思うんですね。すべてが遊びになっていく。政治的決定だろうが国際関係だろうが、すべてをゲームとして捉えることが、鋭利な知性の証のように考えられる段階になっている。つまり、すべてが「真面目な祝祭」になってしまった以上、愚かになれる空間というのがなくなっているわけです。これは、とてもおぞましい世の中です。

 

p.110

じゃあ、共感の時代の中で、みんなどんどん優しくなっていって、いままでより細かな配慮がみんなできるようになったのかと思いきや、そうともいえない。共感から外れる者に敏感になっているから、ちょっとでも外れていると、それを病理化して見出して、取り込もうとする。だから、発達障害的な人への心優しいケアがどんどん広がっているかのような状況と、サイコパス的なものへの恐れというのは、同一平面上の現象です。

 

p.114

千葉 二村さんは女性の能動性を強調するわけですが、それは、交換可能性というか、自分自身がウケになったり、タチになったりすることですよね。そういう交換可能性があるから一方的に相手を傷つけない、というところがポイントなんだと思います。 一般の男性は快感の追求が甘いから、貧しいセックスしかしていない。それは一方向的になるわけですよね。だから、相手を傷つけてしまう。それは快感の追求が足りないからですよ。二村 そうですそうです。わかってくれて、ありがとう。千葉 快感を追求したら、自分自身が受動的な立場に立ったり、もっとリバーシブルな関係に絶対向かっていくわけです。

 

p.130

おそらく、そういうことは世界中で起きている。被害者に感情移入しすぎる正義の人も、被害者意識があるからこそ強がって差別する側につく人も、自分の感情を根拠にひたすら相手を攻撃する。でも、自分自身が変身することは考えない。

『モダニティと自己アイデンティティ 後期近代における自己と社会』アンソニー・ギデンス

p.12

モダニティはポスト伝統的な秩序であるが、そこでは合理的知識の確実性が伝統や習慣による確実性にとって代わった、というわけではない。〜

モダニティでは根本的懐疑の原理が制度化さへており、そこではすべての知識は仮説のかたちを取らざるをえない。仮説とはすなわち、十分に正しいかもしれないが、原則的に修正に開かれていて、ある段階では放棄される可能性を持つような主張のことである。

 

p.17

モダニティは、忘れてはならないが、差異、排除、疎外を生み出す。解放の可能性を提示しておきながら、同時に近代的制度は自己実現ではなく、自己の抑圧のメカニズムを作りだす。

『女のいない男たち』村上春樹

11月の頭に丸々一週間早めの冬休みを取って、南の島でぐだぐだ過ごした。

毎晩連れが寝静まった後、風が窓を叩く音や海のさざめきを聴きながら、暗い部屋で小さな灯りつけて、毎晩一話ずつ読んだ。

静かな夜たちだった。二十も半ば、なぜかしらん満ち足りた生活の中にも、孤独は濃いインクみたいにねっとりべったり。

寝たら忘れることは少なくなってきて、

いつも同じ場所を回っているような。ような。ような。

新しい作品だって昔の作品だって、彼の根本は変わらないね。

それが嬉しいような、安心するような。ような。ような。

でもこういう寂しさや、すーすーする訳の分からない胸のぽっかり感は人知れずとも意味があるんじゃないのかな知らんけどって感じで、女のいない男たちは嘯いてくれる。

 

『木野』

p.233

客がまったく来ない店で、木野は久しぶりに心ゆくまで音楽を聴き、読みたかった本を読んだ。乾いた地面が雨を受け入れるように、ごく自然に孤独と沈黙と寂寥を受け入れた。よくアート・テイタムのソロ・ピアノのレコードをかけた。その音楽は今の彼の気持ちに似合っていた。

〜〜〜

誰かを幸福にすることもできず、むろん自分を幸福にすることもできない。だいたい幸福というのがどういうものなのか、木野にはうまく見定められなくなっていた。痛みとか怒りとか、失望とか定款とか、そういう感覚も今ひとつ明瞭に知覚できない。かろうじて彼にできるのは、そのように奥行きと重みを失ったら自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかり繋ぎとめておく場所をこしらえておくくらいだった。

 

p.275

記憶は何かと力になる。そして髪を短くし、新しい青いワンピースを着たかつての妻の姿を思い浮かべた。何はともあれ、彼女が新しい場所で幸福で健康な生活を送っていることを木野は願った。身体な傷を負ったりしないでいてくれるといい。彼女は面と向かって謝罪したし、おれはそれは受け入れたのだ。おれは忘れることだけではなく、赦すことを覚えなくてはならない。

 

『女のいない男たち』

p.291

女のいない男たちになるのがどれくらい切ないことなのか、心痛むことなのか、それは女のいない男たちにしか理解できない。素敵な西風を失うこと。十四歳を永遠にーーー十億年はたぶん永遠に近い時間だーーー奪われてしまうこと。遠くに水夫たちの物憂くも痛ましい歌を聴くこと。アンモナイトシーラカンスと共に暗い海の底に潜むこと。夜中の一時過ぎに誰かの家に電話がかけること。夜中の一時過ぎに誰かから電話がかかってくること。知と無知との間の任意の中間地点で見知らぬ相手と待ち合わせること。タイヤの空気圧を測りながら、乾いた路上に涙をこぼすこと。