母音で愛を語りましょう

私をとりまく、ぐるりのこと。

『同時代ゲーム』大江健三郎

p.46

親戚じゅうが集ったその畸型の誕生の夜、大人たちのいつまでも囁きあう声に妨げられて眠れなかったカルロス少年は、その深夜、藁を敷いた寝床で、この宇宙のなかの銀河系の太陽をめぐるひとつの星の、南アメリカの、コロンビアという国の一地方の、ひとつの村に生きて死ぬケシ粒のような自分ということを考え、恐怖にとらえられた。ところが、その現に納屋の石壁に向けて頭を押しあてて寝ている自分が、この村に属し、このあたりの地方に属し、コロンビアというひとつの国に属することで南アメリカに位置し、地球という星に属して太陽をめぐり、銀河系に属して宇宙の一成員であるということに思いたると、さきの恐怖にみあうほどの至福の思いが湧いて、かれは小便を洩らすほとであったのである……

『ことばの顔』鷲田清一

2000年10月の本だからね、もう20年以上前の本。

なのに、すごく身近に感じたよ。

バランス感覚が自分と似ていて、昔ここで僕が書いていたようなことを言ってたりもしてなんだか嬉しいような。50歳くらい離れてるのに、すごいよね。鷲田さんとおしゃべりしてみたいね。

 

それでいて最後の方の、吉本隆明の言葉に僕もしっかり感銘受ける。小林秀雄の『信じることと知ること』とどこか通ずる。

「母」の無為の献身に僕らの「思想」はどこまで敵うことができるのか。

浴槽でフラニーが思わず笑みを浮かべてしまうような「太っちょなおばさん」。

柳田國男も同じようなことを言っていた気がする。

いやうろ覚えだな。誰か教えて。

とにもかくにも、

このダイレクトさは本当に強い。太い。

 

〜〜〜

 

死語となった当時のモードな言葉。意外と一周回ってご存命のお言葉もちらほら。TPOとかね。

「キレる若者」

なんか懐かしい言葉だよね。僕が小さい頃、よく聞いたよ。

当時は世相を、やや緩く、でも鋭く切ってたんだなってわかるよ。

 

〜〜〜

 

話しあいじゃなくて黙りあい。

これは寺山修司の引用か。

やっぱり、なんだかんだ、みんな良いなぁ。

こういう言葉への一つ一つのささやかな尊敬と共感が、

今日の僕を作ってる。

変なところに行かないように調整してくれてる。

 

〜〜〜

 

 

p.12

というわけで、いつも通常のサイズから外れてしまうので、おなじものが見えていながらちがうものを見ているきりんのように、ときにはうんと背伸びして、ときには地面に這いつくばって、そして世界に置いてきぼりにされるほど外れた時刻に、でもやはり、世界をながめていたいとおもう。そのとき、だれのことでもないからこそ、だれについてもより深く語れるようなことがらが見えてくるはずだ。

 

p.17

融和しようのない対立を内蔵していること、じぶんの二重性に引き裂かれそうになっていること。そういう事態をまのあたりにしたとき、ぼくは、ああこれが現実なんだなあ、という思いにいたく動かされる。

 

p.20

勝手な言い草とはおもうが、じぶんを大切に、とひとに言われてすなおに聴けるのに、じぶんを大事にする人間はどこか信用がおけない。じぶんというものにこだわらないときのほうが、こだわるときより、ひとは少しはましな行動をという感覚がわたしにはある。じぶんというものにこだわった物言いになると、たいてい、言葉の端々でひとを深く傷つけている。

 

p.21

ふとそんなとき出逢ったのが、「何に対してじぶんがじぶんであるかという、その関係の相手方が、つねにじぶんを測る尺度となる」という言葉。そうか、じぶんはなさけない奴でも、じぶんが気になるひとがりっぱだったらそれでいいんだ。そう考えて、すこしは慰められた。

 

p.25

こうしてモードは、賭博と同じく、たえずじぶんをちゃらにする。過去との縁を切断する。それまでとは異なるということ、それだけがモードの関心であるかのように。

 

p.32

そう、大人は現在のじぶんのみじめさを、「子ども」の美しいイメージで埋め合わせようとしている。だから何かに塗れ、きれいでないと、いらつくのだ。

 

p.38

ある目的に向かって、それにとって意味のあることばかりしていると、移ろいやすいもの、傷つきやすいもの、滅びやすいものが眼に入らなくなる。人や物をその存在に沿ってそっとまさぐることができなくなる。ぶらぶら歩いて、その道すがら、未知のものの感触に身をゆだねてみればいい。そうすれば、人生、まだまだ空席だらけに見えてくる。

ふたたびボードレールを引けば、「己の孤独を賑わせる術を知らぬ者は、忙しい群衆の中にあって独りでいる術をも知らない」。意味のあることしかできないという無能力もあることを、忘るべからず。

 

p.48

ミッショル・セールは、〈内部〉を皮膚という表層の効果としてとらえたひとだ。皮膚と皮膚が接触するところに〈魂〉が生まれると考えた。唇を噛みしめる、額に手を当てる、手を合わせる、括約筋を締める、すると、そこに〈魂〉が生まれる、と。だから、他人との皮膚の設定も「魂のパスゲーム」という意味をもつことになる。そういう〈魂〉をさらしたゲームのなかで、ひとはじぶんの存在に触れる。そう、傷のなかで。時間がなにかのきっかけで思い出したように疼かせるあの傷のなかで。そう、負った傷のぶんだけ、たしかに〈わたし〉は存在する。すくなくとも。

 

p.51

ひとつの気持ちをキープするのがむずかしいだけではない。そういう「無力感」じたいもまた洗い流されていく。そんな思いに囚われた子に、多くの「社会人」がやっているような、不在の未来のためにいまを犠牲にするという生き方が輝いて見えるはずがない。そんな未来が来たってすぐに洗い流されるのが分かっているのだから。でも、未来の幸福のために、給料を稼ぎだすために、こつこつ働いている大半の「社会人」もまた、ほんとはそのことを知りすぎるほど知っている。

 

p.92

弔いの感情、悔いの感情とは、とりもどしのきかない時間の感情である。逆に、とりかえしのつかなさそのものを純粋に反復するという逆説を生きるのが賭博であろう。人生は、そういう、とりかえしのつかなさと性懲りのなさの交代からなりたっているらしい。

 

p.101

が、彼女たちはほんとうにそれでなにを買おうというのだろう。彼女たちがほんとうに欲しいものってなんだろう。リッチな気分? じぶんに注がれるまぶしそうな視線? 物というたしかな形をもったプライド? なにがなんでもじぶんをワンランク・アップしたいというこの欲望、当世風と言われはするもののやはり、いい大学に出たい、持ち家がほしい、管理職につきたい……といったおとなのふつうの欲望を、きちんと複写している。身を削り、傷つけてでもそれを手に入れたいという、やむにやまれぬ衝動まで同じかたちをしている。それがいったいなんだと、こころの底では思ってはいないわけではないのに、である。

すごい鏡である。クローンよりもすごいコピーである。

 

p.126

荻野「今は、作者幻想や個性幻想が残っていて、それぞれの著者は作品や芸術の永続性に対する信仰を、まだどこかで引きずっています。作品が残るか否かに関係なく、場を楽しくするために使われる言葉がある方が、気楽だし楽しいんですが。」

鷲田「作者の業のようなものですね。だれかのものになることによって、貧しくなることもあるんですよ。オリジナリティのしんどさというか。」

 

p.134

荻野「遊びっていうのは、本気でやって、かつ、むなしいってことが分かってないと。むなしいから遊ぶけど、その遊びもむなしい。そのむなしさ全部引き受ける覚悟がないと大人じゃない。」

 

p.141

鷲田「遊ぶってすごいなあと思うのは、まじめになって意識は緊張の極というのに、体の方はゆるゆるにしておかないと、とっさに思い通りに体が動かないという、そういう両極持っていないといけない。パリに行った時でも体を緩めてしまって、においであるとか、圧倒的な大きさであるとか……。」

荻野「空気の感じ、ほこりの感じとか。」

鷲田「全部全開にしとかないと、新しい経験ってできないですよね。」

 

p.150

荻野「感性は知的な作業がないと研ぎ澄まされないし、感性がないと知性も育まれない。二つに分けるのは、近代の幻想ですね。私は学生によく「楽しめ」と言うんですけど、楽しむのは難しいことで、知性がないと、感じることはできない。それこそおサルさん状態から一歩も出ない。おいしさだけでなく、まずさも、おいしさとまずさの落差も、ずれも楽しめと言ってるんです。お笑いも、ずれを楽しむ、知的で論理的な行為ですよね。」

 

p.154

鷲田「ディープなものは、自分のアイデンティティを賭けるわけですから、アイデンティティを取り換える方法、複数持つ方法を積極的に考えては。

ピカソって贋作の多い人でしょ。あるとき画商が、本人に見てもらったら確かだというので、ピカソに絵を本物と偽物に分けてもらったんですって。そしたら、画商が絶対本物と思ってるものまでよけた。『私の目の前で描いた絵だから、間違いない』と画商が言うと、ピカソは『ピカソが描いたかもしれないが、おれは認めない』。そういうディープですよね。『ピカソ』というアイデンティティにとらわれなかった。」

 

p.217

が、ここに欠けているのは、ヨーロッパ文明がほんとうに重視してきた〈批判〉の精神である。「何か他のもの、知らないものを体得するには、あらかじめ自分を自分から疎隔すること、すなわち遠ざけることができ、それから、そのようにして自分から離れたところにいて、他のものを知らないもののつもりでわが物にする、ということ」である。レーヴィットのいう〈批判〉の精神とは、「世界の自己自身を観る客観的な即物的な眼差、比較し区別することができ、自己を他において認識する眼差」のことである。

 

p.224

他人を理解するというのは、他人と想いをともにすることではなく、他人との異なりを思い知らされることだ。それはときに、文の肌理のような、些細なことのうちにつよく感じられるようにおもう(最後よこの文はちょっと顔が濃すぎる、かな)。

 

p.272

それに炊事や裁縫なんかの時間も考えると、むかしの女のひとは一日じゅう働きづめだったのだろう。

このひとにとって〈わたし〉とは何か!

そう問うことの無神経さについて、むかし詩人の吉本隆明さんがていねいな言葉で語っていたのをおぼえている。そういう問いを発することを思いつきもせず、くる日もくる日も、家族のために同じことをくりかえしているそういう行為に、はたして「思想」がどこまで拮抗できるか、それをいつもひそかに自分に問うていなければならない、というような意味のことをおっしゃってた。

『美しい日本の私』川端康成

p.86

定家の秀歌のうちには入れかねます。勿論、たとえ一人でも、この歌をすぐれていると感じる人があるなら、それを粗忽に軽んじてはなりますまい。ただ一人がその美を発見し、感得すれば、やがてそれが万人に通じることは、芸術作品にはよくあります。

 

p.88

千年、千二百年前に、今日に劣らぬ、むしろ今日よりすぐれた文学、詩や散文をわたくしたちが持っていることは、わたくしたちが今日の文学を創造するのにも鑑賞するのにも、表に立つ助け、あるいは裏にひそむ力になっていることを疑えません。日本の古典、伝統をよく知った上で、それを否定、排除しようとしてもです。それをよく知らなくて無関心に近いとしてもです。

『犬婿入り』多和田葉子

割と距離を保っているかと思いきや、おもむろに接近してきて感情を殴りつけたり、急に湿度の高い性的なものやこと。

 

でも人間、とくに他とは相いれずでも自分自身と深く結びついた人間への優しい眼差しを感じてしまう。

 

『ペルソナ』も『犬婿入り』も、物語が最後になって急にはらはらと動き出して、そのまま舞台から消えていく。

彼や彼女らのキャラクターは、

まだまだどこかで息途絶えず、ぐるぐる考えもがいたり、疑問を抱いたり無視したり、しているのだろうって気持ち。

 

『夏子の冒険』三島由紀夫

夏子の皮をかぶった三島由紀夫自身ではないか。

と思うところもあったり、

でも、三島がなれない憧れも投影されているような感じもあって。

 

久しぶりにシンプルな冒険活劇を読んだ(シンプルの裏に皮肉や真意が垣間見えるけど)。

おばさんの下りは終始愉快だったなあ。

夏の北海道の清々しさがあった。

夜の闇の黒さがあった。

落ちも痛快。

 

この時代から更に時を経て、

情熱はリアリティから更にずれている気もする。

ああ、どうしよう。

 

〜〜〜

 

羊をめぐる冒険とのつながりがあるなんて、面白い。

つながりは気がつくと身近に溢れていて、

それを見つけた瞬間の愉快さは、簡単に批判できないね。

 

たどってたどって、いつかあなたの元にいたら、

それはすごいぜ。

 

〜〜〜

 

p.16

『ああ、誰のあとをついて行っても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることはないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしているけれど、自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだと気づいていない。……』

 

p.24

この肉体がいずれ空気のようになる、魂だけになる、しずかに漂う薔薇の薫りのようなものだけになる。夏子は石竹いろの寝間着の上からシュミーズの胸にさわってみた。寝台車の低い天井にこもる暑さのために、乳房はかすかに汗ばんで、熱かった。これが透明な空気になってしまう。そう思うと、彼女には自分の体が、どんな男よりも力強いしかもやさしい無限の力で徐々にしめつけられてゆくような酔い心地が想像された。ちょうどレモンが清浄な硝子の圧搾器の上で搾られてゆくように。

 

p.40

この人は世間でいちばん無駄事と思われていることを堂々とやりとおせる人だ。世間でいちばん馬鹿にされている感情に身を捧げることのできる人だ。

 

p.45

海は静かで、光りが飽和状態に達したほど、すべての景色が明るくて睡気をもよおす。頭上を吹きまくっている烈しい風がなかったら、自分があまり際限のない夏の光りの中に融けてしまうような気がしたことであろう。

 

p.152

「ええ」と夏子はかすかに言った。「やっぱり、帰るのはよすわ。でも、あたくし、あの子にやきもちをやいて帰るといい出したのじゃなくってよ。一寸帰りたくなったから、そう言ってみたの。あんまりどこまでもついてったら、あなたに悪いような気が、ふっとしたの」

「何を言ってるんだい。どこまでも僕について来いよ。僕が離すもんか」

と毅は語気を強めて、低声で言った。その瞬間、ほんの一瞬間であったが、夏子は、

『まあ、己惚れてるわ』

と思ったのである。夫婦と同様に、清浄な恋人同士にも、倦怠期というものはあるものだった。

 

p.212

夏子はその長い接吻のあいだ、片目をちらとひらいて、頭上の星空を瞥見した。目の中に星が落ちてくるようである。口の中にその熱い滴がしたたってくるようである。大熊座が見え、小熊座が見えた。この親子の熊は、黒い光沢のある毛皮が夜空の黒にまぎれ入って、ただその爪や牙の燦めきだけが、われわれの目に映るにすぎない。

 

p.260

痩せおとろえた老村長の顔色は紙のように白かったが、その落ちくぼんだ目には俄かに生色がよみがえり、焔がその頬を偽りの紅いで彩った。熊の血みどろの屍を見るうちに、彼の心に青年時代の数々の狩の記憶がよみがえるらしかった。そのころ彼の四肢には青春の力がみちあふれ、彼の精悍な若い体軀は、野山を獣のように馳せめぐった。その若葉のそよぎ、その頬を切る風、その狩猟の歓喜、獲物の血をすする狂おしい喜びまでが、ありありと老い衰えた目の中によみがえるのがうかがわれた。

老人は口をうごかして何か言おうとした。しかし何も言えない。白い髭におおわれた口はみにくく歪むばかりである。するうちに、一筋の涙が、眼尻から流れて光った。これを見た毅たち一同は、どんな讃辞をきくよりも感動した。

『ダンス・ダンス・ダンス(下)』村上春樹

エンディングが素敵だ。

僕シリーズはこれで終わりだけど、

一切を受動態で切り抜け生きてきた「僕」が、

とにかく彼女を失いたくない気持ちに駆られる。

大いなるもの(時に、時間や死。時に、闇組織や怪物や地震)を前にして、

小さき無力な主人公が、一人でも自分なりに足掻く。

村上春樹の作品にずーっと貫いているテーマの、

萌芽のようなエンディング。

 

僕は「神の子どもは皆踊る」の中の『蜂蜜パイ』が一番好きなのだけど、

その最後に近い。

ちょっと前映画化された『バーニング(納屋を焼く)』もそのテーマが正確に彫り込まれていたから、すごく好き。

 

〜〜〜

 

思いつきの連続のような「冒険」が徐々に「死と喪失」に絞りを当てられていく様は、アジャイルでこの物語が綴られたんだなと感じさせる。

どういうエンドになるかなんかきっとさっぱり決まっていなくて、

村上春樹の、その当時の人生や悩みや情熱が、筆を進めさせている感じ。

僕らはそれをなぞって読む。

終わりそうになって、終わらない最後のパートは、

ようやく得た幸福を離したくない我儘さだけじゃなくて、

もう失いたくないという焦りと怖さが妙にリアル。

 

僕らはそれをなぞって読む。

 

〜〜〜

 

ビートルズの作品が中期から「I」と「you」の主観だけの世界観から脱却していくように、

村上春樹の作品もこの頃から『物語』として色が強くなる。

 

〜〜〜

 

p.61

「私、あなたのことがよくわからないの」とユミヨシさんがとても静かに言った。「時々あなたのことを思い出すの。でもあなたという人間の実体がよくわからないの」

「君の言っていることはよくわかる」と僕は言った。「僕は三十四だけれど、残念ながら年齢のわりにはまだ解明されていない部分が多すぎる。保留事項も多すぎる。今それを少しずつ詰めているところなんだ。僕なりに努力してる。だからもう少し時間がたてば、いろんなことを君に正確に説明できると思う。そして我々はもっと深く理解しあえるはずだと思う」

「そうなるといいわね」と彼女は非常に第三者的に言った。

 

 

p.105

「あなた料理が上手いのね」とユキが感心して言った。

「上手いんじゃない。ただ愛情をこめて丁寧に作っているだけだよ。それだけでずいぶん違うものなんだ。姿勢の問題だよ。様々な物事を愛そうと努めれば、ある程度までは愛せる。気持ち良く生きていこうと努めれば、ある程度までは気持ち良く生きていける」

「でもそれ以上は駄目なのね」

「それ以上のことは運だ」と僕は言った。

「あなたってわりに人のこと落ち込ませるのね。ちゃんとした大人のくせに」とユキはあきれたように言った。

 

p.107

「暗示性が具体的な形をとるのをじっと待って、それから対処すればいいんだと思う。要するに」

ユキはTシャツの襟もとを指でいじりながらそれについて考えていた。でもよくわからないようだった。「それ、どういうこと?」

「待てばいいということだよ」と僕は説明した。「ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる」

p.199

「なんとかなるものさ」

「あるいはね」と僕は言った。「なるかもしれない。ならないかもしれない。誰にもわからない。みんな同じだよ」

「でも僕は現在のところある部分においてさえ楽しんでいないぜ」

「そうかもしれないけど、君はとてもよくやっている」

五反田君は首を振った。「よくやっている人間がこうして際限なく愚痴を言うものかな?そして君に迷惑をかけるものかな?」

「そういう時もある」と僕は言った。「我々は人間について話をしてるんだよ。等比数列の話をしているわけじゃない」

 

p.239

「いったい私はどうすればいいのかしら?」と少しあとでユキは言った。

「何もしなくていい」と僕は言った。「言葉にならないものを大事にすればいいんだ。それが死者に対する礼儀だ。時間が経てばいろんなことがわかるよ。残るべきものは残る。残らないものは残らない。時間が多くの部分を解決してくれる。時間が解決できないことを君が解決するんだ。僕の言うことは難しすぎる?」

「少し」とユキは言って、微かに微笑んだ。

『雪国』川端康成

傑作でした。

やったね、今、読めて。

 

雪国を真夏に手に取る時点で、風流もねぇな、なんて思ったけど、読んでみれば意外にも春夏秋冬辿る物語なのね。

幾年も季節を超えて、そして最後の冬へ。

雪と炎と天の河へ。

 

〜〜〜

 

冒頭の一文は、大学の翻訳の授業でよく取り上げられていた。

英文にすると、トンネルが後にきちゃうから、長いトンネルを抜けた感が出ないって。

だから文章がもう映像的なんだろうなって思ってたけど、全編通して、想像よりずっと映画的で愉快だった。

 

地の文、風景描写は、

いちいち感情を持ったカメラマンが映している感じ。

私たちを取り巻く命を、人も山も草も虫も、やけっぱちなぐらい描き連ねていって、

乾いた主人公の心とは、裏腹に、

命の湿度が高い景色。

 

だからこそね、

だからこそ最後の死が、

美しく、厳か。

 

炎の轟音が鳴り響き、

天上の星々と過ぎ去った年月は、

ぶんぶんギュルギュル音を立てて自分の周りを急回転してる。

息切れてうるさい心臓と人々の声。

その中での、

完璧に静寂な死。

 

〜〜〜

 

歳をとるにつれて、

本の読み方が本当に変わったな、って実感する。

日々。

昔より、地の文をゆっくり丁寧に読むようになった。

読書の速度は落ちているけど、

今だからこそ、余分なく読めたんだろうなと思う。

もっともっと上手くなっていきたいよね。

幼い頃みたいに、鋭い読書はできなくても。

上手に、柔らかに、ゆっくりと、確かめるような読書。

僕らを取り巻く世界を見つめる目を養う読書。

 

本に限らず、音楽だって、

ほら今なら、少しだけでも上手に聞ける。

 

ベースラインの波に乗って、

奥で手前で跳ねるエレキやピアノにときめいて、

ストリングスに心撫でられ、

ドラムスに手をぐいぐい引っ張られながら、

でもぎゅっと握ってくれているから、

ほら堂々と歩いていけるではないか。

 

その感じに近いような。近くないような。

 

さぁ、今日も歳をとろうか、なんて言いながら。

 

〜〜〜

 

p.13

そういう時彼女の顔のなかにともし火がともったのだった。この鏡の映像は窓の外のともし火を消す強さはなかった。ともし火も映像を消しはしなかった。そうしてともし火は彼女の顔のなかを流れて通るのだった。しかし彼女の顔を光り輝かせるようなことはしなかった。冷たく遠い光であった。小さい瞳のまわりをぽうっと明るくしながら、つまり娘の眼と火とが重なった瞬間、彼女の眼は夕闇の波間に浮ぶ、妖しく美しい夜光虫であった。

 

p.30

しかし、島村は宿の玄関で若葉の匂いの強い裏山を見上げると、それに誘われるように荒っぽく登って行った。

なにがおかしいのか、一人で笑いが止まらなかった。

ほどよく疲れたところで、くるっと振り向きざま浴衣の尻からげして、一散に駈け下りて来ると、足もとから黄蝶が二羽飛び立った。

蝶はもつれ合いながら、やがて国境の山より高く、黄色が白くなってゆくにつれて、遙かだった。

 

p.44

彼女もまた見もしない映画や芝居の話を、楽しげにしゃべるのだった。こういう話相手に幾月も飢えていた後なのであろう。百九十九日前のあの時も、こういう話に夢中になったことが、自ら進んで島村に身を投げかけてゆくはずみとなったのも忘れてか、またしても自分の言葉の描くもので体まで温まって来る風であった。

しかし、そういう都会的なものへのあこがれも、今はもう素直なあきらめにつつまれて無心な夢のようであったから、都の落人じみた高慢な不平よりも、単純な徒労の感が強かった。彼女自らはそれを寂しがる様子もないが、島村の眼には不思議な哀れとも見えた。その思いに溺れたなら、島村自らが生きていることも徒労であるという、遠い感傷に落されて行くのであろう。けれども目の前の彼女は山気に染まって生き生きとした血色だった。

 

p.120

「葉子さん早いのね。髪結いさんへ私……」と、駒子が言いかかった時だった。どっと真黒な突風に吹き飛ばされたように、彼女も島村も身を竦めた。

貨物列車が轟然と真近を通ったのだ。

「姉さあん」と、呼ぶ声が、その荒々しい響きのなかを流れて来た。黒い貨物の扉から、少年が帽子を振っていた。

「佐一郎う、佐一郎う」と、葉子が呼んだ。

雪の信号所で駅長を呼んだ、あの声である。聞こえもせぬ遠い船の人を呼ぶような、悲しいほど美しい声であった。

貨物列車が通ってしまうと、目隠しを取ったように、線路向うの蕎麦の花が鮮かに見えた。赤い茎の上に咲き揃って実に静かであった。

思いがけなく葉子に会ったので、二人は汽車の来るのも気がつかなかったほどだったが、そのようななにかも、貨物列車が吹き払って行ってしまった。

そして後には、車輪の音よりも葉子の声の余韻が残っていそうだった。純潔な愛情の木魂が返って来そうだった。

 

p.150

「よくないわ。つらいから帰ってちょうだい。もう着る着物がないの。あんたのところへ来るたびに、お座敷着を変えたいけれど、すっかり種切れで、これお友達の借着なのよ。悪い子でしょう?」

島村は言葉も出なかった。

「そんなの、どこがいい子?」と、駒子は少し声を潤ませて、

「初めて会った時、あんたなんていやな人だろうと思ったわ。あんな失礼なことを言う人ないわ。ほんとうにいやなあ気がした」

島村はうなずいた。

「あら。それを私今まで黙ってたの。分る?女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」

「いいよ」

「そう?」と、駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。

 

p.171

天の河は二人が走って来たうしろから前へ流れおりて、駒子の顔は天の河のなかで照らされるように見えた。

しかし、細く高い鼻の形も明らかでないし、小さい唇の色も消えていた。空をあふれて横切る明りの層が、こんなに暗いのかと島村は信じられなかった。薄月夜よりも淡い星明りなのだろうが、どんな満月の空よりも天の河は明るく、地上になんの影もないほのかさに駒子の顔が古い面のように浮んで、女の匂いがすることが不思議だった。

見上げていると天の河はまたこの大地を抱こうとしておりて来ると思われる。

大きい極光のようでもある天の河は島村の身を浸して流れて、地の果てに立っているかのようにも感じさせた。しいんと冷える寂しさでありながら、なにかなめまかしい驚きでもあった。

 

p.177

その痙攣よりも先きに、島村は葉子の顔と赤い矢絣の着物を見ていた。葉子は仰向けに落ちた。片膝の少し上まで裾がまくれていた。地上にぶっつかっても、腓が痙攣しただけで、失心したままらしかった。島村はやはりなぜか死は感じなかったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものは感じた。

葉子を落した二階桟敷から骨組の木が、二、三本傾いて来て、葉子の顔の上で燃え出した。葉子はあの刺すように美しい目をつぶっていた。あごを突き出して、首の線が伸びていた。火明りが青白い顔の上を揺れ通った。

幾年か前、島村がこの温泉場へ駒子に会いに来る汽車のなかで、葉子の顔のただなかに野山のともし火がともった時のさまをはっと思い出して、島村はまた胸が顫えた。一瞬に駒子との年月が照し出されたようだった。なにかせつない苦痛と悲哀もここにあった。