p.80
冷い乙女椿、雛の画、そうして洋燈の光、それは私の昔だった。私はしばらくの間じっと立っていた。周囲は記憶の中のように暗かった。
p.20
くよくよ考えたり、気取ったり、自分の良さを盛ったりしないような、そういう反射的な反応に関しても明快であれるような人生を歩みたい。
p.28
そのすばらしい笑顔を見ることができたのだから、人というものをまたほんの少し好きになることができるくらいの瞳の輝きを見ることができたから、あの長電話の時間の全てが一秒もむだではなかったんだ、と私は思った。
p.42
でもそれは「さあ、今日は黄色い葉っぱを見に代々木公演に行こう」と思って意気込んでいたならば、決してわからなかった美しさだった。
流れの中にいたから、偶然見ることができたんだと思う。
美は偶然の中にあり、ぎゅっとつかむと逃げてしまうから。
p.70
いつかこの日が来るとわかっていたから、いつも切なかったんだと。
いつまでもいるよとは決して言ってくれないその人のあり方が、切なかったんだと。
うそでもいいからそう言ってくれていたら、きっとこの気持ちにはならなかっただろう。
かといって恨む気持ちも全然わいてこない。
膨大な時間の積み重ねにただ呆然とするだけだ。
みんながこんなふうに呆然とできるのだったら世界は荒野ではなく花畑なんじゃないかな、とこの呆然とした感じの中にあるあまりの豊かさにしみじみ思う。
p.152
ほんとうは無事だろうとわかっているなかでの、お別れごっこのハグはほんとうに温かかった。万が一あれがリハーサルでなかったとしても悔いがないくらい、世界はきれいだった。
p.8
でもあえて凡庸な一般論を言わせてもらえるなら、我々の不完全な人生には、むだなことだっていくぶんは必要なのだ。もし不完全な人生からすべてのむだが消えてしまったら、それは不完全でさえなくなってしまう。
p.64
ぼくはまだ若かったから、その手のカラフルな事件は人生の中でしばしば起こるものなのだろうと思った。そうではないことに気づいたのは、もっとあとになってからだ。
p.65
「注意深くなる、というのが話のポイントだよ、たぶん」とぼくは言った。「最初からあうだこうだとものごとを決めつけずに、状況に応じて素直に耳を澄ませること、心と頭をいつもオープンにしておくこと」
p.167
ソファに戻り、音楽が午後の光の中に書き出す小世界に心を沈めながら、ブラームスを美しく弾くことができたらどんなに素晴らしいだろうとミュウは考えた。
p.23
発展することのない、いわば静的な緊張状態とでも言うべきもののなかで、情念は最大限の強さに達し、徐々に変化する場合よりも、いっそう明瞭に説得力を持って現れる。私がドストエフスキーを好きなのも、これを偏愛するゆえである。私により興味深いのは、外見は静的にみえて、内面には自らをとらえる情念のエネルギーが張りつめている人物なのだ。
p.24
ともかくこの詩の論理は、論理的に首尾一貫した線的なプロットの展開によってイメージを関連づける伝統的なドラマトゥルギーよりも、私にずっと近いのだ。出来事のそのような、うるさいほど〈正確な〉関連づけは、普通、独断的な見込みと、抽象的な、ときに教訓的な判断に強制されて生まれる。またたとえ登場人物の性格がプロットを決定している場合でも、関係づけの論理は、人生の複雑さを単純化することに依拠している。
p.26
祖母の話は面白いものの、あまりに不思議なところは、子供の聞き手を面白がらせるために部分的に作られた話ではないか、とも思ったことを覚えています。それでいてなんとも懐かしく、引きつけられるようであったのでした。このそれでいてということが、大切な気がしたことを覚えているのです。これはあらかた祖母様の作り話だと思うが、それでいて、懐かしく引きつけられる……
再々再読くらい。
p.36
多チャンネルの人の場合は、それが深刻な矛盾にならないんですね。そういういろんなヴォイスの使い分けができる人の特徴は、メッセージのコンテつを首尾一貫させることよりも、コミュニケーシャンの回路を成り立たせることのほうが優先順位が高い、ということですね。コミュニケーションにおいて重要なのは、首尾一貫して同じことを言い続けることじゃない。「互いの声が届く」ということです。
p.38
だれが語るのであれ、「わたしではないだれか」が語る時に言葉は深い響きを帯び、「わたし」が語る時に「うるさい」ものになる。
p.64
武道の稽古はそのちょうど逆で、いるべき時に、いるべき場所にいる人間として今の自分をきっぱりと規定する。今、ここを肯定するというとこからでなければ何も始まらない。
p.97
その時に、作用を受ける側の体をさらに細かく割って割って、場(field)の中の出来事として捉えたほうが、さらにわかりやすい、というふうにわたしは考えるんです。物理でいう場というのは抽象概念ですから、本当は具象的には説明できないということをふまえつつ、モノをコトにすり替えたコンセプトで考える。すると、イメージすると人の状態が変わるという現象は、その空間内の場の中での出来事だと思えるんです。
p.161
社会の承認を求めていると言いながら、社会のことなんかぜんぜん見ていないんですよね。「社会的な承認」という非常にプライベートな幻想に耽溺しているだけであって、見ていないんですよ、社会そのものもそこで生きている人の姿も。